『国史大辞典』第13巻 p.883 「師岡正胤」の項によると、上田藩に預けられている間に『みすず日記』 『しのぶぐさ』 『囚屋のすさび』『いささむら竹』を表わしたと記載があるがこれらの資料は当館では所蔵していない。
『国書総目録』 著者別索引 p.903 「師岡(もろおか)正胤(節斎)」には6件の著作が掲載されており、その中に『ひとやのすさび』がある。 『国書総目録』 第6巻p.784 によると『ひとやのすさび』 は記録・和歌の類で、その写本が大阪市立大学 森文庫(文久三)(元治元)に所蔵されている。
また
日本古典籍総合目録データベース の「検索ページ」で全項目「師岡正胤」で検索すると13件ヒットし、『四能夫玖沙 ( しのぶぐさ )』は随筆の類で、その写本が大阪市立大学 森文庫にマイクロフィルムで所蔵がある。他、以下の2件もヒットした。
・『師岡正胤翁略歴 ( もろおかまさたねおうりゃくれき )』 この資料は随筆の類で、著作注記には「〈般〉文久三癸亥の二月より/三将軍木像記・ひとやのすさびより成る。」と記載があり、写本が大倉精神文化研究所(横浜市港区北)(無窮神習蔵本写)と,無窮会神習文庫(「師岡正胤翁履歴」、玉簏一九七)(一冊)(東京都町田市)にあるようだ。
・『師岡正胤翁略歴 ( もろおかまさたねおうりゃくれき )』 この資料は伝記の類で、著者は角田忠行、元治元年成立、写本が無窮会神習文庫(歌集抜萃を付す)(東京都町田市)にあるようだ。
・日本古典籍総合目録データベースで『みすず日記』を検索すると著者名の記載はなく著作注記に「〈般〉元治二‐慶応三。」と記載がある。写本が上述の大阪市立大学 森文庫にあり、国文学研究資料館にマイクロフィルムの所蔵があるようだ。※〈般〉は一般注記のこと
・参考までに同データベースで『いさゝむら竹』を検索すると随筆の分類で、著者は久松祐之(ひさまつすけゆき)とあり、別称は幽篁庵( ゆうこうあん )祐之( ゆうし )と掲載あり。『国書人名辞典』第4巻 市古貞次 [ほか]編 岩波書店 1998 【281.03/244/4】 p.111によると、幕臣・歌人であり、生年未詳、安政3年(1856)頃没とある。著作は、『いさゝむら竹』の他に『江戸年中行事編』(嘉永4刊)『近世事物考』等があるようだ。また『国学者伝記集成』 続編 大川茂雄編 国本出版社 1935 【121/269/3】 p.582によると久松祐之の没年は弘化5年と記載があり、『国学者伝記集成』 第2巻 大川茂雄編 国本出版社 1934 【121/269/2】 p.1395には著書として『近世事物考』『いさゝむら竹』の記載がある。
「しのぶぐさ」については、
国立国会図書館サーチ で愛媛県立図書館に所蔵を確認できた。
愛媛県立図書館HP 師岡正胤および師岡貞春に関連する資料、論文、記事の掲載がある地域資料については当館ではほとんど確認できなかったが、上田市立博物館には以下の関連資料があり、閲覧可能。
・師岡正胤が書いた色紙1枚
・松平家文書 『日乗』…幕府に提出した書類
・家老が書いた公務日誌
※ 『日乗』と公務日誌で該当の期間を調査可能。当館に『信濃国上田 松平家文書目録』 上田市立博物館編 上田市立博物館 1976 (上田市立博物館収蔵史料目録) 【N221/62ア】の所蔵があり、相互貸借可能。
上田市立博物館・上田城櫓 〈当館で調査した資料〉
『上田市史』下巻 藤澤直枝著 信濃毎日新聞社 1940 【N221/26/2】
巻末「上田市略年表」 p.1337 文久3年に「2月22日等持院足利将軍木像斬首事件あり」「8月10日木像斬首犯人の内上田藩預り大庭恭平師岡節齋の二人上田に着す」という記載あり。(算用数字は資料では漢数字で記載)
※この資料は1352pあり、詳細には確認できていない。相互貸借可能資料。
『上田藩松平家物語』 松野喜太郎著 郷土出版社 1982 【N288/110】
p.70 「預り人を上田藩に留置す」の項あり。上田藩預けとなった師岡節斉(正胤)・大庭恭平の両名を上田藩に護送する様子を「御預り人道中警固行列帳」から紹介しており、その厳重さがわかる記載だが、幽囚されている間の様子については記載がない。
『長野県歴史人物大事典』 神津良子編 郷土出版社 1989 【N283/13】
p.731 「師岡正胤」の項 幽囚中の様子は特に記載なし。
『展示解説 上田の幕末・維新』 上田市立博物館編 上田市立博物館 1985 【215.2/ウエ】
p.4 「足利三代木像梟首事件犯人預り 文久3年(1863)」「師岡正胤の書」
師岡正胤の遺墨(和歌)の写真が掲載されている。
下記のデータベースを検索したが、該当はヒットせず。
・当館の蔵書検索で全項目検索。
・
長野県内図書館の横断検索サービス ・
長野県市町村史誌目次データベース・
上田地域図書館情報ネットワーク・信濃毎日新聞データベース(当館契約データベース)で「記事検索(1995年7月1日以降)」 および 「明治・大正・昭和の見出し(主なもの)」について検索
事前調査事項として、師岡貞春は明治政府に提出した書類に長野県貫族士族と記しているということについては当館では確認できないが、上田藩には「師岡」姓の藩士がいたのでその記載がある資料を紹介する。また先述の上田市立博物館に以下の資料があり閲覧可能。
『師岡秀麿家文書目録 加藤竜雄家文書目録』 上田市立博物館編 上田市立博物館 1993 (上田市立博物館収蔵史料目録) 【N221/62/2】
p.38-40 分類に「師岡家」があり、「師岡氏由緒」「師岡氏系図」「師岡家家系図下書」「師岡氏家系の内 本国美濃平姓」などが目録にあげられている。こちらも希望があれば上田市立博物館で閲覧可能だと思われる。※閲覧方法については上述参照
〈当館の師岡姓について記載がある資料〉
『上田藩の人物と文化』 上田市立博物館編 上田市立博物館 1986
p.101-102 「松平忠晴の家臣召抱え」の項「忠晴第1期(元和元年~同5年)」によれば、真田氏と仙石氏のあと宝永3年(1706年)上田藩主となった松平氏は藤井松平氏でも分家の忠晴系であり、忠晴が大阪夏の陣に参加し、従五位下・伊賀守に叙任された時期(まだ所領はない)に家臣2氏が召し抱えられ、そのうちの1氏が師岡氏であったようだ。元和2年に召し抱えの、この師岡氏の由緒についても記載あり。
また、巻末後付け頁p.1-8「付録1 文化十年(1813)九月 上田藩士分限帳」p.2 「寄合席」として「弐百三十石 師岡主鈴 二十六才」という記載あり。同じく巻末後付け頁p.9-17「付録2 天保十年(1839)上田藩士分限帳」 p.11 「百石 句読師助 師岡唯之丞」という記載あり。
『長野県姓氏歴史人物大辞典』 長野県姓氏歴史人物大辞典編纂委員会編著 角川書店1996(角川日本姓氏歴史人物大辞典 20)【N288/158】
p.121-123 「上田藩の治世」、p.122-123には「一八六七(慶応三)年七月には江戸家老岡部九郎兵衛が失脚し、家老師岡主鈴が藩政を担当した」と記載あり。
『上田藩松平家物語』 松野喜太郎著 郷土出版社 1982 【N288/110】
p.111~115「十 忠晴代御家中諸士年数改」 p.111 元和2年に「師岡意伯・同嘉兵衛」と記載あり。
『長野県史 近世史料編第1巻(1) 東信地方』 長野県編 長野県史刊行会 1971 【N209/11/1】
大項目「上田領」のうち、「領知」の項
p58~p92「五三 享保十四年二月 松平忠愛家中分限帳」のうち、
p.58「高五百石 師岡加兵衛」 「高弐百石 師岡甚右衛門」
p.59「高百五拾石 師岡一学」
p.63「拾人扶持 師岡左源太」
p.76「米三拾五表 五人扶持 師岡政之進」
『松平忠固・赤松小三郎:上田にみる近代の夜明け』 上田市立博物館編 上田市立博物館 1994 【N289/マツダ】
p.44 「九郎兵衛の死」の項に安政5年の記載が見え、藩は借財問題を無視できず、手段掛として師岡加兵衛を任命したという記載あり。
師岡正胤と赤松小三郎の交わりを現わす記述及び研究について
紹介した資料以外に、以下の資料を調査したが該当の事項は確認できなかった。
『上田藩』 青木歳幸著 現代書館 2011 【215.2/アト】
『松平忠固・赤松小三郎:上田にみる近代の夜明け』 上田市立博物館編 上田市立博物館 1994 【N289/マツダ】
『上田市誌』 近現代篇1:新しい社会を求めて 上田市誌編さん委員会編 上田市 2002 【N221/175/14】
『上田市誌』 近現代篇 資料1 上田市誌編さん委員会編 上田市 2003 【N221/175/16付】
『上田市誌』 近現代篇 資料2 上田市誌編さん委員会編 上田市 2003 【N221/175/19付】
『長野県小県郡史』 長野県小県郡役所編纂 千秋社 1998 【N221/165】
※大正11年刊の復刻
『赤松小三郎実録』 赤松小三郎顕彰会/編 赤松小三郎顕彰会 2016 【N289/アカマ】
『赤松小三郎松平忠厚:維新変革前後異才二人の生涯』 上田市立博物館編 上田市立博物館 2000 【N289/アカマ】