レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2020年09月11日
- 登録日時
- 2020/09/18 12:08
- 更新日時
- 2020/10/07 11:23
- 管理番号
- 2020-29
- 質問
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解決
「河口良庵」という長崎和蘭商館医で学んだ医師(唐津土井藩医師)が大洲で亡くなっている。父親左太夫が伊予大洲から肥前松浦藩医となった人物とある。娘「於蝶」が大洲に住んでいたので、晩年は京から大洲に戻ったようである。何時大洲に帰ったのかなど解る資料はあるか。
- 回答
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【資料1】p21-27 河口良庵と大洲
(抜粋)
天和2年(1682)、妻林氏が46歳、京都で亡くなった。良庵54歳である。
その後、貞享4年(1687)、良庵豫洲で卒、寿59歳の記述が続くので、先妻死後(その時まで正妻)一周忌か三回忌が終った貞享元年(1684)頃、大洲へ来たのかと想像した。しかし、家系譜には景友の妻及び長女の不幸の記載があった。即ち、貞享丑年(1685)景友の妻中野氏、豫洲の産、卒。同じく三(?)年乙丑年7月長女於源京都で早逝、とあるのである。乙丑の記述が正しいとすればこれは貞享2年のことであり、そうすると妻と娘を同時に失うという当時のお産をとりまく事情を物語っている記述である。この年月にこだわれば良庵の来洲は貞享3年頃ということになる。
三女於閑は天和2年(1682)、京都の生まれ、景友も「豫洲を去る時、宮崎を名乗った。」という記述から、良庵は家族全員を伴って大洲へ来た。長女於蝶は大洲徳生寺に嫁している。
次男信詮はその後大洲藩医として仕えている。外科要訣全書も大洲で完成した。
貞享4年(1687)、良庵、大洲にて卒。
【資料2】(「伊予史談」 第326号 平成14年7月号 p13-19)いつ大洲に帰ったか等は、【資料1】と重なる部分がある。また、「河口家略譜」「河口良庵略譜」がある。
- 回答プロセス
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蔵書検索で【資料2】がヒット。【資料2】の著者で検索し【資料1】がヒットした。
- 事前調査事項
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W/ミヒェル『九州の蘭学ー越境と交流』(思文閣出版 2009)
- NDC
- 参考資料
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- 【資料1】『故きを温ね』 村上 光/著 〔大洲〕 〔村上光〕 2006 <当館請求記号:K490.4-ムヒ-2006>
- 【資料2】「大洲藩医河口良庵」 村上光/〔著〕 <当館請求記号:K200-1-326>
- キーワード
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- 河口良庵
- 唐津土井藩医師
- 於蝶
- 大洲
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000287306