レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2015/05/15
- 登録日時
- 2016/01/22 00:30
- 更新日時
- 2016/01/22 00:30
- 管理番号
- 6001013583
- 質問
-
解決
百人一首に選ばれている「難波潟 みじかき芦の ふしの間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや」という伊勢が詠んだ歌に関して、難波潟と詠まれている部分で、今の東淀川区辺りまでが難波八十島と呼ばれる葦が茂る干潟のような場所だったということで、その難波八十島の東限はどのあたりまでだったのか、また東淀川区ー旭区にかかる豊里大橋あたりは難波八十島のどの部分にあたるか、それを示すような絵図が残っているか、お伺いしたいです。
- 回答
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(【 】内は、当館の請求記号です。)
なかなか思ったような文献がでてこないのですが、
『大阪史蹟辞典] 三善貞司編 清文堂 1986.7 【372/341/#】 p609-610
「八十島祭り」の項目が最も多くの文章で説明しています。
かいつまんで説明すると
牧村史陽氏は『難波大阪』で「この八十島は淀川河口に点在した数多い島々の意」としているが、筆者は不特定語でどこかわからないとしています。
また、『摂津名所図会大成』では八十島祭を行った場所は現在の御幣島ではないかとしている。
等の記述があります。
『摂津名所図会』 巻一
摂津名所図会の最初の地名が「浪速国」(なにわのくに)で、
「海浜数郡の惣号なり。今、東生(ひがしなり)・西成の二郡に亘る。大坂もって難波津といふ。難波江・難波浦・難波潟・なにわの海等、古詠多し」としています。
この記述でいくなら、東成(生)郡は現旭区まで、西成郡は現東淀川区まで入るので豊里大橋も入るということになります。
百人一首にもどって
『百人一首の世界] 千葉千鶴子著 和泉書院 1992.10 【911.14/28N】 p50-51
には「難波潟は、大阪湾の古称で蘆の名所。」としています。
自治体の広さや場所ではなく、特に定義付けが必要な用語ではない(例・江戸前はどこまでかと同じ)ので、広義と狭義で意味合いが変わってくると思われます。また、図示した資料もみつけることはできませんでした。
以上で回答とさせていただきます。
[事例作成日:平成28年1月5日]
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
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- 大阪史蹟辞典 三善/貞司∥編 清文堂 1986.7
- 百人一首の世界 千葉/千鶴子∥著 和泉書院 1992.10
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 大阪,地名・地域
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000187419