レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2020/12/13
- 登録日時
- 2021/01/14 00:30
- 更新日時
- 2021/01/14 00:30
- 提供館
- 宮城県図書館 (2110032)
- 管理番号
- MYG-REF-200024
- 質問
-
解決
江戸時代の仙台藩の城下町で,「町」とついている地名は「まち」か「ちょう」か。
「国分町」の当時の読み方と,「国分町十九軒」の「十九軒」とは何を意味しているのかを知りたい。
また,「六軒町」の由来が知りたい。
- 回答
-
下記資料に記載がありました。※【 】内は当館請求記号です。
資料1 菊地勝之助『仙台地名考』宝文堂, 1971【K292.5/キ1-2】
p.11「第四,町名の呼称とその原則」の項
「仙台では侍屋敷のある町を丁(ちょう)と呼び,足軽や町人のいる町を町(まち)と呼び,またかく書いた。」
pp.150-151「第五,人為の存在物に因む地名 (11)六軒丁」の項
「延宝六・八年(一六七八-八〇)製作の絵図では,真中に横丁が通り幾軒かの小屋敷に割られている。この地を六軒丁といったようである。(中略)現在六軒丁と呼んでいる通りは,北一番丁の南裏,二本杉通の南端,空堀丁の北端から新小路に通じている横丁である。寛文八・九年(一六六八-六九)の絵図によれば,既にその頃大小数軒の侍屋敷に割られている。(中略)北六軒丁と称している。次に片平丁の南端と田町との間に南六軒丁がある。(中略)柴田外記・大条監物などの大身侍の大屋敷が六つ程に割られてある。恐らく六軒丁の名がこれに因ったものと考える。」
p.157「第六,士族・人物等の呼称による地名 (1)国分町(こくぶんまち)」の項
「国分氏に従い,木の下附近に住居していた町人等を芭蕉の辻から北に置いた。これが国分町である。(中略)国分町草分けの頃は『国分十九軒』といわれたように,芭蕉の辻から北へ,東側十軒,西側九軒と屋敷が置かれた。」
資料2 平凡社地方資料センター編『宮城県の地名』平凡社, 1987【K290.3/ミ43】
p.273「国分町」の項
「取立時に町人となったのは国分衆と称された国分氏の家臣の一部とされ,(中略)商人になったのは一九人とする説があり,創設の頃大町四丁目との境より東に一〇軒,西に九軒の屋敷があったのをとくに十九軒と称したのもその事情によるという。」
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本 (291 9版)
- 参考資料
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- 菊地 勝之助/著. 仙台地名考. 宝文堂, 1971【K292.5/キ1-2/イ】:
- 平凡社地方資料センター/編. 宮城県の地名. 平凡社, 1987【K290.3/ミ43/イ】:
- キーワード
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- 宮城県仙台市
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 地名
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000292310