レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2016/03/08
- 登録日時
- 2016/07/30 00:30
- 更新日時
- 2016/07/31 09:35
- 管理番号
- 千県中参考-2016-19
- 質問
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解決
新島襄の漢詩「寒梅」について、いつ頃作られたか知りたい。
- 回答
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新島襄の漢詩で寒梅を主題としたものは次の2つがあるようです。
(1)「庭上一寒梅 笑侵風雪開 不争又不力 自占百花魁」(庭上の一寒梅 笑ふて風雪を侵して開く 争はずまた力めず 自から占む 百花の魁)
(2)「真理似寒梅 敢侵風雪開」(真理は寒梅のごとし 敢えて風雪を侵して開く)
(1)の漢詩について
下記資料によると明治23年(1890)、新島襄が47歳のときの作と見られます。
【資料1】『新島襄』(和田洋一著 日本基督教団出版局 1974 人と思想シリーズ)
p.285「五平伝説、寒梅の詩、遺言」
「この五言絶句は、おそらく前者(明治23年(1890)元旦)より数日あとに生まれた作品だと推定される(中略)百足屋の庭には梅の木が一本あり、大磯はあたたかい土地なので正月に花が咲いた。それを眺めての新島の感想が、詩の形をとったのであろう」とされています。
【資料2】『敢えて風雪を侵して 新島襄を語る』(本井康博著 思文閣出版 2007)
p.47「庭上の一寒梅」
「この詩は神奈川県大磯で(新島が)亡くなるときに作詞したとの伝承がある」ということです。
p.72「庭上之一寒梅」
著者は、「新島が最期を迎えた神奈川県大磯(百足屋旅館)で作られたとするのが一般的」として、『新島襄の漢詩』(小川与四郎著 同志社新島研究会 1979)による推定の文章を引用しています。
(2)の漢詩について
下記資料によると明治21年(1888)、新島襄が45歳のときの作と見られます。
【資料2】『敢えて風雪を侵して 新島襄を語る』(本井康博著 思文閣出版 2007)
p.15「新島襄「寒梅」碑の写真」
碑は新島学園短期大学キャンパス(群馬県高崎市)にあり、「新島襄が愛弟子の深井英五に与えたもの」と書かれているそうです。
p.52「新島襄のことば2」
「1888年頃、新島襄が教え子の同志社学生、深井英五に書いて与えたもの。(中略)この漢詩が有名になったのは、1942年に同志社校友会が刊行した『新島先生書簡集』(正編)の口絵頁に写真版で紹介されたことが、契機となったと思われる。その後、所蔵者の深井はこれを同志社に寄贈した」ということです。
p.71「深井英五に「寒梅」を贈る」
著者は、下記資料を出典として、「寒梅」という詩は新島が深井に1888年頃に書いて与えたものとしています。
『新島襄 その時代と生涯』(同志社 1994)(http://ci.nii.ac.jp/ncid/BN13763055)
(インターネット最終アクセス:2016年7月3日)
- 回答プロセス
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自館の蔵書検索システムで件名「新島襄」を検索して関連資料にあたりました。
なお、上記の『新島襄 その時代と生涯』と類似タイトルの別の資料(出版年が異なる)を確認したところ、「真理似寒梅」ではなく、「庭上一寒梅」の漢詩について「大磯での作と伝えられている」(p.137)という記述がありました。百足屋旅館の写真も掲載されています。
『新島襄 その時代と生涯 新島襄生誕一五〇記念写真集』(同志社 1993)(http://ci.nii.ac.jp/ncid/BN08888109)
また、インターネットの検索結果から、『吟詠教本 漢詩篇』(日本詩吟学院岳風会編 笠間書院 1976)(p.96)に「庭上一寒梅」の通釈や語釈が載っているのが見つかりました。
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本文学 (910 9版)
- 漢詩文.日本漢文学 (919 9版)
- 参考資料
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- 【資料1】『新島襄』(和田洋一著 日本基督教団出版局 1974 人と思想シリーズ)(9102423702)
- 【資料2】『敢えて風雪を侵して 新島襄を語る』(本井康博著 思文閣出版 2007)(2102092797)
- キーワード
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- 新島襄(ニイジマジョウ)
- 教育家(キョウイクカ)
- 漢詩(日本)(カンシ(ニホン))
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 一般
- 質問者区分
- 図書館
- 登録番号
- 1000195461