レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2020/03/04
- 登録日時
- 2020/03/28 00:31
- 更新日時
- 2020/03/28 00:31
- 管理番号
- 6001043238
- 質問
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解決
織田信長が天正4(1576)年に本願寺と天王寺の辺りで戦った際、織田信長が足に鉄砲傷を受けたそうだが、そのことが記述された資料はあるか。
- 回答
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以下の資料に織田信長が足に鉄砲傷を受けたとの記述があります。
・『大阪府史 第4巻 中世編』(大阪府史編集専門委員会/編集 大阪府 1981)
p.466-470「木津川口の戦い」の項に記載がありました。
p.468「五月七日、信長は若江を進発して天王寺砦の援護に向かった。(中略)先鋒は佐久間盛政・松永久秀・細川藤孝の三名であった。(『信長公記』)。天王寺の戦いは信長自身、足に鉄砲玉を受け、負傷するほどの激戦であったが、ようやく籠城の明智勢と一手になることに成功し、奮迅に駆けめぐってついに石山勢を追い崩し、さらに一揆を追って大坂石山城の木戸口まで迫った。」
・『新修大阪市史 第2巻』(新修大阪市史編纂委員会/編集 大阪市 1988.3)
p.661-662「籠城戦の開始」の項に記載がありました。
p.662「苦戦の情報を聞いた信長は、五日に京都をたって若江に入り、七日には天王寺で激戦を展開し、足に銃創を受けながら本願寺軍を撃破し、本願寺膝下に迫った。(中略)本願寺が孤立したのを見定めた信長は、六月六日京都に帰着した(『言継卿記』『多聞院日記』)。」
・『戦国合戦大事典 4』(戦国合戦史研究会/編 新人物往来社 1989.4)
p.21「『信長公記』によると、わずか百騎ばかりの伴衆を従えて若江に入城したという。翌日、戦況の報告を受け、作戦を練ると、七日には召集した将兵三千余で天王寺に出撃した。(中略)信長自身は先手の足軽にまじって陣頭指揮をとり、駆け回りながら八方に下知をとばしたのだったが、薄手を負い、足には鉄砲疵をこうむったという。(後略)」
・『織田信長石山本願寺合戦全史』(武田鏡村/著 ベストセラーズ 2003.1)
p.143-144「大坂における敗戦を京都で知った信長は、すぐさま三千の兵を率いて大坂に向かい、七日には住吉口から天王寺に迫った。(中略)七日夜半の行動を起こした信長軍は、本願寺勢の二千挺の鉄砲の間隙をぬって天王寺に迫った。このとき信長は、足に鉄砲の玉をうけて軽傷を負ったが、そのまま前進して、天王寺から打って出た明智勢らと挟み撃ちにして、本願寺勢を潰走させた。信長勢は、逃げる門徒衆を追って、「大坂城戸口」まで攻め立てて、二千七百人を討ち取ったという(『信長公記』巻九)。」
〔事例作成日:2020年3月4日〕
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210 10版)
- 参考資料
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- 大阪府史 第4巻 大阪府史編集専門委員会∥編集 大阪府 1981
- 新修大阪市史 第2巻 新修大阪市史編纂委員会∥編集 大阪市 1988.3
- 戦国合戦大事典 4 戦国合戦史研究会∥編 新人物往来社 1989.4
- 織田信長石山本願寺合戦全史 武田/鏡村∥著 ベストセラーズ 2003.1
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 大阪
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000279679