レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2010年03月19日
- 登録日時
- 2010/03/19 19:30
- 更新日時
- 2020/04/22 16:13
- 管理番号
- 会津-1
- 質問
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解決
九州で五島二州の太守とうたわれた龍造寺氏の末裔が、会津藩士になったことを確認したが、「要略 会津藩諸士系譜」
で見つけることができなかった。歴代の実名を教えて欲しい。
- 回答
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お問い合わせの龍造寺氏についてでありますが、当館所蔵の諸士系譜第66巻が欠号のため、『り』の部分がわからない状況です。(ちなみに、第65巻は『ちの1』第67巻は『をの1』です。)そのため、「要略 会津藩諸士系譜 下巻」にも記載がありません。
しかしながら、「会津藩家世実紀」(寛永8年(1631)から文化3年(1806)に至る176年間の出来事が編年体で記述されたもの)を見ますと、第1巻(4の巻:正保元年8月18日)に、『竜造寺伯庵殿従公儀御預』の記述があります。
「伯庵殿者肥前之国主竜造寺山城守隆信之後ニ有之、竜造寺之家者、・・・・」
これによりますと次のようです。
藤原李時12代孫、山城守家兼→豊前守家純→六郎次郎周家→山城守隆信(幼名長法師丸、天正12年肥前之国主島津家久と島原で戦い討死)→民部大輔政家(病死)→駿河守隆房→伯庵
第2巻(72の巻:寛文6年5月12日)『御預人竜造寺伯庵殿死去』の記述中には、政家の養子に将監、伯庵妾腹之子将監孫之形ニ申広に庄之助がおります。
その後の系図については不明ですが、年代順に出てくる竜造寺の名前を記載します。
第6巻(114巻:享保8年) 竜造寺勝之助
第8巻(139巻:元文4年他) 竜造寺 登
(147巻:延享元年他) 竜造寺内膳
第10巻(178巻:宝暦10年) 龍造寺左門
第13巻(139巻:寛政2年) 竜造寺伯耆
第14巻(247巻:寛政6年) 竜造寺主膳
竜造寺平馬政信(主膳の養子、本姓原田慶道、江上隼人二男、高田又兵衛五代目之 師)
第15巻(261巻:寛政12年) ※竜造寺舎人
(263巻:享和元年) 竜造寺七郎治
(263巻:享和元年他) 竜造寺金吾(七郎治の子)
※舎人は「文化5年蝦夷行詰・龍造寺舎人道記」を著しています。その解題に次 の記述があります。
「龍造寺家は江戸初期まで肥前の領主であったが、末孫の伯庵が幕府から罪を得て正保元年に会津藩へお預けの身となり、死後は実子である庄之助が保科家(後の会津松平家)へ召抱えられている。
龍造寺舎人高虎はその子孫で、知行300石。家老北原采女の陣将隊属し、物頭として小頭2名と足軽20名を率いて出陣した。介添の立場で倅の大内蔵も同行している。」『会津藩第7代藩主松平容衆年譜』より
また、江戸時代後期においては、次の4名がおります。
①龍造寺源吾(戊辰戦争において70歳で死亡)
「明治戊辰殉難名簿」より
「安政5年調役名禄高住所明細 会津藩士人名辞典」より
②龍造寺国太郎(源吾の子)「慶応年間会津藩士人名録」より
「文久年間外様分限帳」より
「幕末会津藩往復文書」より
③龍造寺帯刀「慶応年間会津藩士人名録」より
④龍造寺政之進「文久年間近習分限帳」より
- 回答プロセス
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「会津藩諸士系譜」をみて欠号であったので、「会津藩家世実紀」から探す。
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
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- 「会津藩諸士系譜」 「会津藩家世実紀」 「幕末会津藩往復文書」 「会津藩第7代藩主松平容衆年譜」 「文久年間分限帳」
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「明治戊辰殉難名簿」 「慶應年間会津藩士人名録」
「安政5年調役名禄高住所明細会津藩士人名辞典」
- キーワード
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- 会津藩士
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 書誌的事項調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000065413