レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2015/01/16
- 登録日時
- 2015/11/29 00:30
- 更新日時
- 2015/12/06 13:09
- 管理番号
- 0000001299
- 質問
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解決
明治後期の金沢第一中学校と金沢第二中学校の卒業生は、軍学校が選び軍人になる割合が高いが、なぜ、第一中と第二中の卒業生は軍学校を選び、軍人になったのか。
推測として、金沢に第8師団があり、軍が身近な存在として、生徒や保護者に受け入れられていたと考えられる。
- 回答
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(1)『石川県教育史 第1巻』(石川県教育史編さん委員会編 石川県教育委員会 1974.3 K372/13/1)によると、
p563「一中卒業生の進路については左表によっても明らかなように、高等学校、帝国大学のコースを志望する者が最も多く、次いで陸軍諸学校・海軍所学校の順であった。なお、軍関係諸学校へは中学四年終了で受検資格が与えられたので、一中からも四一年度までに五八名の者が卒業をまたず陸軍士官学校や海軍兵学校の入試に合格している。」
p566「二中生の家庭状況は他の中学の生徒にくらべて最も経済的に恵まれていた。なお、明治期における二中生の進路は多岐にわたるが、その中でも金沢医専-医業のコースであった。」
とあり、一中については、軍関係諸学校への進学が多かったとされていますが、二中については、多かったという評価がされていません。
(2)『金沢一中・泉丘高校百年史 前編』(金沢一中・泉丘高校百年史編集委員会編 一泉創立百周年記念事業実行委員会 1993.10 K376.4/168/1)によると、
p57「軍関係諸学校への進学は、他の中学に比してかなり多いが、全国的にみれば、熊本第一済々黌・山口中学・佐賀一中などの軍関係への進学によって著名な中学校の半数にも及ばず、それほど顕著であったとはいえない。むしろ高等学校-帝国大学(とくに法経部門)や医専へのコースが一中卒業生の進路として典型的なものと見るべきであろう。」
と、軍関係への進学は顕著とは言えないと結論づけています。
(3)しかし、上記『金沢一中・泉丘高校百年史 前編』には、以下のように、中学における軍事関連の行事についても言及されています。
p59「明治以降の日本の歴史は戦争一色に塗りつぶされているといってもよい。明治の一中の過ごした歳月のなかでも、日清・日露の二度にわたる戦争が起こされ、国力を挙げての戦いは、静かなるべき学園にも深い傷痕を与えずにはおかなかった。試みに日露戦争の渦中にあった1904(明治37)年の学校日誌をひもとくと、武道場・運動場を九師団に貸与したほか、一年間に軍事講演4回、実弾射撃7回、発火演習3回、提灯行列2回、出征兵士の見送り30回、戦死者の争議参列20回に及び、学園はあわただしい戦時色に塗りつぶされている。」という記述があります。
(4)二中については、
・『金沢二中・錦丘高校校史』金沢二中・錦丘高校校史編集委員会編 金沢二中七十五年・金沢錦丘高校十周年記念事業実行委員会 1973.10(K376.4/48/1)
・『金沢二中・錦丘高校校史』金沢錦丘高校校史編集委員会編 石川県立金沢錦丘高等学校創立五〇周年記念事業実行委員会 2013.9(K376.4/1260)
を確認してみましたが、明治期の進学の傾向や軍との関係に関する記述はありません。
(5)このほか、以下の図書に、軍と金沢の中学について言及していないか探してみましたが、見つかりませんでした。
・『近代日本の地方都市』橋本哲哉編 日本経済評論社 2006.5(K222/1032)
・『軍都の慰霊空間』本康宏史著 吉川弘文館 2002.3(K209.7/1001)
なお、金沢にありましたのは「第九師団」です。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
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軍学校を選び、軍人になる割合は、第一中が1336名中215名の16.1%、第二中が522名中61名の11.7%。中学校の平均が6~7%なので、際だって高い。
- NDC
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- 教育 (37 9版)
- 参考資料
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- 1 石川県教育史 第1巻 石川県教育史編さん委員会∥編 石川県教育委員会 1974.3 K372/13/1
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2 金沢一中・泉丘高校百年史 前編 金沢一中・泉丘高校百年史編集委員会∥編 一泉創立百周年記念事業実行委員会 1993.10 K376.4/168/1
- キーワード
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- 軍学校
- 金沢第一中学校
- 金沢第二中学校
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000184625