レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2017年02月14日
- 登録日時
- 2017/02/24 16:15
- 更新日時
- 2019/06/12 10:30
- 管理番号
- 島根郷2017-02-002
- 質問
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未解決
明治後期から大正初期に松江に来た宣教師にバークレー・F・バックストンがいますが、彼の二女は松江で亡くなっているそうです。お墓は松江にあるそうですが、どこにあるのか知りたいです。
- 回答
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当館所蔵資料より下記の資料を紹介し回答。
バークレー・F・バックストン(1860-1946)
イギリス人宣教師。明治23(1890)年来日し、翌年に松江に移住。明治26(1893)年に松江市北堀町の赤山とよばれる地に自宅と修養道場を立てる(現在は大本教島根本苑がある)。道場を中心に布教活動を行い、「松江バンド」とよばれる純福音運動の源流となるキリスト教集団を形成する。その後、バックストンは松江とイギリス、日本を往復しキリスト教布教活動を続けた。
参考:Wikipedia「バークレー・バックストン」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3)
資料1:p132-137「赤山とバックストン司祭」の項目の最後に娘について記述あり。
バックストンは明治35(1901)年に家族とともにイギリスに帰国し、明治38(1905)年に次女ラケルが生まれた(長女は生後まもなく死亡)。大正2(1913)年にラケルも伴って再び松江に住んだが、ラケルは松江在中に没し、「松江市奥谷町の丘の墓地にある『バックストン嬰児之墓』と刻まれた小さな墓」に葬られたとされる。具体的な場所の記述はなし。
資料2:p127-130「クリスマス-偏見の中、命懸けで集会-」に、写真のみ掲載。説明に「松江市奥谷町に今も残るバックストンゆかりの人たちの墓所。右側の墓には『バックストン嬰児の墓』と刻まれている」とあり。具体的な場所については記述なし。
資料3:東奥谷町、奥谷町界隈が載っている地図。バックストンが住んでいた赤山の屋敷(現・大本教島根本苑)など載せるが、墓地については記載なし。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 各教派.教会史 (198 8版)
- 中国地方 (217 8版)
- 参考資料
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【資料1】立脇祐十 編著 , 立脇, 祐十. 語りつぐ松江物語. 立脇祐十, 1987.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001967328-00 (当館請求記号 092.2/48 ※貸出禁止資料) -
【資料2】松江まちづくりプロジェクト, 松江青年会議所 編 , 松江まちづくりプロジェクト , 松江青年会議所. 松江余談. 今井書店, 1989.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002069285-00 , ISBN 489593005X (当館請求記号 郷貸出217.32/マ89) -
【資料3】城北地区わがまち自慢発掘プロジェクト実行委員会 編 , 城北地区わがまち自慢発掘プロジェクト実行委員会. お城の北道しるべ 改訂. 城北公民館, 2012.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I069552481-00 (当館請求記号 092.92/480/12 ※貸出禁止資料)
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【資料1】立脇祐十 編著 , 立脇, 祐十. 語りつぐ松江物語. 立脇祐十, 1987.
- キーワード
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- 松江市
- バークレー・バックストン
- キリスト教
- 宣教師
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000210549