レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年06月27日
- 登録日時
- 2013/11/22 16:56
- 更新日時
- 2014/02/14 19:13
- 管理番号
- 9000009275
- 質問
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解決
山梨県山梨市(旧牧丘町)の「生捕(いけどり)」という地名の由来を知りたい。
- 回答
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「生捕」の地名には、跡部景家の伝説が関わっている。跡部氏は甲斐守護代となると40年にわたり専横した。武田信昌はこれを憎み、1464(寛正5)年19歳になると初めて守護代跡部景家を討って、その勢力を滅亡させた。「生捕」は、甲斐国側での信昌と跡部氏の争い「夕狩沢(ゆうかりざわ)合戦」で、跡部方の兵士が生け捕りになったところという伝説が伝わっており、『甲斐国志』にも「乱戦の有様を以て名づくる所なりと云う」と記されている。また武田の将、三枝勘解由守友が落ち武者をかくまったという説も伝わっている。
『牧丘町誌』(牧丘町 1980年)では学術的な考察として、焼畑農業に関係し、「生き生きとしている草里(草里は休閑地の意味)」または池が近くにある「池草里」が転訛したものと考えてよい、としている。
- 回答プロセス
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1.事典類を確認。
・『角川日本地名大辞典』第19巻 山梨県(角川書店 1984年)[資料番号0101389591]→「生捕」の項目はなし。巻末「資料編」の「小字一覧」で「牧丘町」を確認すると、「北原(きたばら)」の小字に「生捕」あり。p314の「北原」の項にも「生捕」の地名の由来はなし。
・『日本歴史地名大系』第19巻 山梨県の地名(平凡社 1995年)[資料番号0102996956]→「生捕」の項目はなし。p200の「西保北原村(にしぶきたばらむら)」の項にも「生捕」の地名の由来はなし。
・『山梨百科事典』(山梨日日新聞社編・発行 1989年)→p52「生捕」の項あり。「地名は1465(寛正6)年、武田信昌、跡部景家の古戦場から名づくという。また、一説には武田の将、三枝勘解由守友が落ち武者をかくまったと伝える。」
2.『牧丘町誌』(牧丘町 1980年)を確認。第1章「集落の成り立ち」の第3節「集落の分布と地名」の「字の名(あざな)のいろいろ」p577に「生捕」の地名の由来について記述あり。
※「生捕」の地名には跡部景家の伝説が関わっていて、寛正6(1465)年の合戦で跡部方の兵士が生捕になったところとされている。学術的な考察では、焼畑農業に関係し、「生き生きとしている草里(草里は休閑地の意味)」または池が近くにある「池草里」が転訛したもの。
3.跡部景家について確認。
・『山梨市史』通史編 上巻(山梨市 2007年)→p204-217。p216に地名の由来についての記述あり。『甲斐国志』の記述が紹介してある。
・『山梨百科事典』(山梨日日新聞社編・発行 1989年)→p29-30「跡部氏の項」
4.『甲斐国志』を確認。『大日本地誌大系』第45巻 甲斐国志 第2巻(雄山閣 1998年)→p183「小田ノ山ノ城跡 西保下村」の項。
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本 (291 9版)
- 参考資料
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- 『牧丘町誌』(牧丘町 1980年) (p577)
- 『山梨市史』通史編 上巻(山梨市 2007年) (p204-217)
- 『大日本地誌大系』第45巻 甲斐国志 第2巻(雄山閣 1998年) (p183)
- 『山梨百科事典』(山梨日日新聞社編・発行 1989年) (p52)
- キーワード
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- 生捕(地名)
- 牧丘町
- 山梨市
- 跡部景家
- 武田信昌
- 夕狩沢合戦
- 地名
- 山梨県
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- ・『甲斐国志』 巻之三十八 古跡部一 「小田ノ山ノ城跡 西保下村」の項にある記述は次のとおり。「景家ハ夕狩沢ノ戦敗レ八幡入リヨリ山越シニ引キトリ此ノ城ニ保(ツボ)ム今地名ニ呼ブ所切差(キッサス)トハ斬リ刺スナリ赤芝ハ血流レテ芝ヲ染ム隠家(カクレガ)・膝立(ヒザタテ)・生捕(イケドリ)・自害沢ナド皆ナコレ乱戦ノ有様ヲ以テ名ヅクル所ナリト云フ」
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土(東八代)
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000141126