レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2011年06月05日
- 登録日時
- 2011/07/12 14:18
- 更新日時
- 2011/08/02 14:24
- 管理番号
- 福井県図-20110605
- 質問
-
未解決
長崎 敏音(ながさき としお)1888.12.15~?について知りたい。親族等はいるか。
- 回答
-
・御大典記念福井県人之精華 昭和4 H280/Z3/1 p141 肖像あり
・土木人物事典 平成16年 510.3/フシイ p214-215 経歴有り
親族等 詳細はわかりませんでした。
- 回答プロセス
-
下記文献を調査。
・御大典記念福井県人之精華 昭和4 H280/Z3/1 p141に記述あり
・関東在住福井県人史 大正12 H280/H20/3 掲載なし
・県外在住福井県人史 大正14 H280/H20/1 掲載なし
・東京在住新福井県人録 昭和5 H280/H9/1 掲載なし
・近畿在住福井県人史 大正10 H280/W/1 掲載なし
福井県に生まれる。1898年、工手学校土木科卒業後、福井県、つづいて千葉県に勤務した。1906年、東京市に移籍。月島や芝浦などの埋立事業と河川の改修工事に従事。また、工手学校の教授を務める。1918年、内務省に都市計画課が設置された際、招請されて六大都市の都市計画に参画。1919年、都市計画実行に移すため、名古屋市土木課長に転出、第一期街路築造事業として六大幹線の計画を樹立し実施する。これは同市の新都市としての計画の噂失となった。その後、呉市土木課長に転じ、呉港海陸連絡工事などにあたる。1923年には、豊橋市土木課長に招かれ、その後技師長、工務課長、水道部長を兼任、同市の土木、都市計画、営繕事業の推進に尽くした。これにより「豊橋市の長崎」の異名をとる。街路工事執行に当たって議会との間に軋轢が生じたため、豊橋市に「去り状」を投げつけ、市民へ辞任の挨拶を述べて1936年に退職した。
- 事前調査事項
- NDC
-
- 建設工学.土木工学 (510 8版)
- 個人伝記 (289 8版)
- 参考資料
- キーワード
-
- 都市計画
- 工手学校
- 土木科
- 豊橋市の長崎
- 福井県
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000088407