レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2012年01月24日
- 登録日時
- 2012/05/19 12:05
- 更新日時
- 2012/07/26 11:42
- 管理番号
- 埼熊-2012-029
- 質問
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解決
五拾人講について
(1)どういうものか
(2)歴史や発生を知りたい。
出典「前橋藩松平家記録 26」(前橋市立図書館編 煥乎堂 2002)の「嘉永五年十月廿九日」の条に「五拾人講今日初日ニ而、来月七日迄追々(後略)」とあり。
- 回答
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『前橋市史』によると、前橋藩が直接介入し、嘉永五年(1852)に開始した無尽の一つで、この〈五十人講〉の他に、文化4年(1807)の「宝玉講」、文政13年(1830)の「正名講」、明治2年の「惣益講」などがある。〈五拾人講〉の概要も、『前橋市史』に記述がある。
『前橋市史 2』(前橋市史編さん委員会編 前橋市 1973)
p952-「藩営無盡と蛹(繭)代金積金制度」の章あり。p953に「文化4年(1807)の宝玉講、文政13年(1830)の正名講、嘉永5年(1852)の五十人講、明治2年の惣益講などが前橋藩の直接介入した無尽である。」とあり。p972-975〈五十人講〉の項あり。「(正名講よりも)もっと利潤のよい方法でなければ、大衆資本の調達はできなくなってきたと思われる。その結果考えだされたものが五十人講であった。」「五十人講は、嘉永5年(1852)にはじめられ」とあり。
また、以下の資料も紹介した。
『大生相互銀行七十年史』(大生相互銀行社長室年史編纂室編 前橋 大生相互銀行 1987)
p14「「五十人講」は、嘉永 5 (1852)年に始められた。1口2両掛け、50名50口を1組としたもので、初回に2両掛けをしてもしだいに掛金が減じ、年3回掛けで、そのつど当たりくじ1本を出し、実際の掛け戻しの額を差し引くと50回に39両3分掛金をし、実質77両2分受け取る勘定になり、しかも、残金400両が「御備金」として残る計算になっていた。」とあり。
質問の「(嘉永5年)十月二十九日 五十人講今日初日にて」とも合致する。本文の内容は、上記『前橋市史』と同じ。
『川島町史 通史編 中』(川島町編 川島町 2008)
p264「五十人講と村々」の項あり。 「藩では才覚金や上納金の取り立てなどの金策を行ったが、その策の一つに「五十人御講」がある。頼母子講であるが、藩の主導で行われ、藩財政の一助とするために加入者を強制的に揃えさせているのである。」とあり。
『川越市史 史料編 近世 3』(川越市総務部市史編纂室編 川越市 1972)
p555「五拾人講仕法割合帳 文政三年」(成田家文書)あり。『前橋市史』の内容に近い。
『編年百姓一揆史料集成 18』(青木虹二編 三一書房 1996)
p297 安政2年卯年2月(美濃国方県郡)芦敷村百姓が御立人に差し出した「御頼申一札之事」という文書中に〈五十人講〉の語あり。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 金融.銀行.信託 (338 9版)
- 参考資料
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- 『前橋市史 2』(前橋市史編さん委員会編 前橋市 1973)
- 『大生相互銀行七十年史』(大生相互銀行社長室年史編纂室編 前橋 大生相互銀行 1987)
- 『川島町史 通史編 中』(川島町編 川島町 2008)
- 『川越市史 史料編 近世3』(川越市総務部市史編纂室編 川越市 1972)
- 『編年百姓一揆史料集成 18』(青木虹二編 三一書房 1996)
- キーワード
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- 無尽
- 五十人講
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 言葉
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000106228