レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2019年08月28日
- 登録日時
- 2019/08/28 14:20
- 更新日時
- 2019/09/05 15:49
- 管理番号
- 県立長野-19-032
- 質問
-
解決
明治30年代以前に、小諸市内を流れる千曲川にて、水運(通船、木流し)事業は行われていたか。
- 回答
-
『日本と古代東北アジアの文化』川崎保 雄山閣2018【210.2/カタ】p.291-292に、木流しの記述として、「元禄年間(17世紀末)の善光寺造営材で、南佐久(相木、川上など)から流し村山で揚げたことが記録にみられるほか、同じく南佐久から流した材木を千曲川から犀川、裾花川に廻して九反で揚げたことが知られる。」とあった。また、通船の記述として、「明治時代から昭和初期の通船。江戸時代にみられた宿場筋の反対や上田藩の軍事的な理由による通船の制限が撤廃されたため商業的な会社組織による通船が行われた。(中略)河川利用は自由化されたといっても、上田より上流は河床勾配がきつく通船には危険で向かなかった。」とあった。
『千曲川の今昔』北陸建設弘済会 雄山閣2001【N517/166】p.155-156に、「宝暦、安永年間(1751-1781年)に千曲川上流(佐久、小諸)の木流しの願い出はあったが、主として用水保護の立場から反対が多く、元禄年間の善光寺造営材の川下げ以外にはほとんど許可されることはなかった。(概略)」との記述があった。また、p.162に、「慶応3年(1867年)、江戸の水戸御殿用材の運搬に、鬼無里山から椹、槻、栂、樅など1万2000尺を切り出し、裾花川、犀川を下り、落合からは千曲川を引き上げ、小諸で陸揚げをし、上州倉賀野まで陸送」との記述があった。
『歴史の道調査報告書31千曲川』長野県教育委員会編1993【N682】p.49に「佐久郡下の千曲川は、河川交通の上ではほとんど役立っていないが、特に浅科村、小諸市域の千曲川は狭間急流で、河川交通はいうまでもなく、両岸の交通を阻害することおびただしい。」との記述があった。また、p.19に「千曲川の通船は、明治5年に75石積10艘・50石積31艘・35石・20石積各1艘計43艘を確認できる。明治7年3月、上田より西大滝・日名より牛島までの千曲川犀川両河にまたがる大きな通船会社をつくって運賃・運送分担などを決めて通船を運営した。(中略)明治21-26年の信越線、明治35年の篠ノ井線、大正10年の飯山線の開通などに押されて通船は姿を消した。」との記述があった。
以上のことから、小諸市の河川の特徴と諸般の事情により、明治30年代以前の小諸市域の通船に関する記録は見つからなかったが、木流しについては、江戸時代に御用材運搬の目的で、南佐久から小諸を経由して九反に至る記録、小諸河岸で陸揚げをした後、上州倉賀野まで陸送した記録があった。
- 回答プロセス
-
1.質問主題から、キーワードを選定して、所蔵資料を検索する。キーワード:【千曲川】【小諸市】【通船】【木流し】
2.『日本と古代東北アジアの文化』川崎保 雄山閣2018【210.2/カタ】に、遺跡跡から千曲川の通船、木流しの痕跡を探索した記述があった。
3.『千曲川の今昔』北陸建設弘済会 雄山閣2001【N517/166】に、千曲川の通船、木流しの記述があった。
4.『歴史の道調査報告書31千曲川』長野県教育委員会編1993【N682】に、千曲川の河川の特徴や歴史に関する記録に基いた記述があった。
5.『長野県史』通史編・近世史料編【N209/11】に、千曲川の通船に関する文言があった。
6.『小諸市誌』(近現代篇、歴史篇、自然篇)小諸市誌編纂委員会編 小諸市教育委員会 【N222/43】をあたったが、水運(通船、木流し)に関する記述はなかった。
- 事前調査事項
- NDC
-
- 日本史 (210)
- 河海工学.河川工学 (517)
- 交通史.事情 (682)
- 参考資料
- キーワード
-
- 千曲川
- 小諸市
- 通船
- 木流し
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000260556