レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2016年8月13日
- 登録日時
- 2016/08/14 12:33
- 更新日時
- 2017/05/19 17:50
- 管理番号
- 長野市立長野-16-009
- 質問
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未解決
上諏訪神宮寺五重塔の建立と廃滅年を探している。出来たら当時の高さなども知りたい。
- 回答
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延慶元年(一三〇八)十一月に、知久敦幸、あるいは、その子敦信が五重塔を寄進している。(双方の記述があるので、どちらが正確なのかは不明。)
天正年間織田信忠の諏訪侵入の際は五重塔は残っていたとされる。
最終的な廃滅は、神仏分離令によるもので、明治元年。(取り崩しが完了した日:12月19日)
なお、諏訪大社上社には模型が残っている。
『諏訪信仰の中世』p271 三間四面(5.5メートル四方)のトチ萱で、高さ二十一間(三十八メートル)(知久敦幸寄進の仏塔の記載による)
『明治維新 神仏分離史料』p450 には五重塔は三間四面、高さ二十七間(約49メートル)。(江戸末期現存の頃の高さによる)
- 回答プロセス
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長野県史・市町村史目次情報データベース(http://misuzu-mokuji.net/)を検索。
検索ワード「神宮寺」にていくつか候補が出たのでそこから資料をあたる。
『茅野市史 中巻』p245「諏訪神社と神宮寺」より、
「わが国では平安時代より鎌倉時代にかけて、神仏習合が行きわたり、全国に明神大社の周辺には神宮寺が建てられた。
諏訪神社上社においても、その本地は普賢菩薩と定められ、上社神宮寺奥殿には正応五年(一一九一)五月、伊那郡の諏訪氏の一族知久敦幸が普賢堂を建立(「普賢堂棟札写」『諏訪史』第三巻)し、同菩薩像が本尊として安置されるに至った。
ついで、敦幸は永仁五年(一二九七)九月、同神宮寺に梵鐘を寄進(「諏訪上社神宮寺鐘銘写」)し、さらに延慶元年(一三〇八)十一月には、敦幸の子敦信が同宮に五重塔を寄進している(「上社神宮寺五重塔露盤破片銘」)。」
『信濃史料 第4巻』の延慶元年十一月(p543)にそれと同様の記述「是月、諏訪社上社神宮寺五重塔鉄露磐成る、」があった。
(余談だが、
『諏訪市史 上巻』p733には延慶元年(一三〇八)に五重塔を寄進したのは敦幸自身であるとしている。
『長野県歴史人物大事典』(郷土出版社 1989)p460 知久敦幸の項では、「子敦信と五輪塔などを寄進している。」とあり。
『諏訪市の文化財』(諏訪市教育委員会 1980)p197 諏訪大社上社五重塔鉄露盤残片 「延慶元年(一三〇八)にはその子敦信の手で五重塔が建立された。」とあり。)
『下諏訪町誌 上巻 増訂』p995 文政二年の「信濃國昔姿」の中で五重塔の概要が記されているとある。
「一 五重塔 本尊五智如来草創は花園院御宇延慶年中當國下伊奈知久神峯城知久大和守左衛門入道行性建立文政二年卯年迄凡五百年程、法華寺預り」
以上から上諏訪(上社)神宮寺の五重塔が延慶元年に寄進されたとする記述以外は見つからなかった。
次に五重塔の廃滅についてをあたる。
諏訪上社は天正年間織田信忠の諏訪侵入の際、兵火によって神社の堂塔を焼失したという記述がみられる。
『茅野市史 中巻』p144
「高遠城を落とした信忠は、翌三日諏訪に入り、上社をはじめ所々に火を放って焼いた。このことは『諏訪頼忠神輿再造事始(写)』(神長官文書・諏史叢十五)に、「天正十年春、兵を信州に発して陣を諏訪に張る。この兵火のため当社宮中ことごとく灰じんし、瓦礫の場となる」と書かれている。
また、「小平物語」には、織田軍は行く先々の民家に放火し、老若男女を問わず突き殺し、神社仏閣も手あたり次第焼きはらった、とあるから、その惨状がいかにひどかったかうかがわれる。」
(「諏訪頼忠神輿再造事始(写)」は『諏訪史料叢書 復刻 第3巻』(中央企画 1983)<p215>)
「小平物語」は『新編 信濃史料叢書 第八巻』(信濃史料刊行会 1974)<p262>に所収)
『諏訪史 第三巻』p399-400 信忠の諏訪討入 諏訪の焼亡
「上社堂塔の焼失の史料は、後世に伝わるものを書き出したものであるから、深く信用は出来ないとしつつ、焼失は凄惨をきわめたものであるが、上社焼き討ち後、信長が法華寺を本営とし、しばらく滞在していたことから、すべてが焼けた訳ではないとしている」
といったような内容が書かれている。
『諏訪市史 上巻』p1112 社殿の焼失
「延慶元年(一三〇八)に寄進された五重塔などは残っていたのであるから、全ての堂塔が焼失したのではないのであろう。」
とあるので、この焼失では五重塔は残っていた模様。
五重塔は最終的に明治の神仏分離令によって失われたものとされる。
『諏訪市史 中巻』p905-908に上社神宮寺の廃滅についての記載があり。
「五重塔は〔明治元年〕十二月十日から取りかかり、十日間かかって十九日には取り崩しが完了した。」
とあり。
「五重塔だけは取り崩しに先立ち、神宮寺村の若い大工守矢松蔵に実測させて描かせた図を残した。現在上社に所蔵されている一〇分の一大の白木作りの五重塔は、この図面をもとにしてのりに、四賀桑原の大工北原佐吉が法華寺に滞在して三年がかりで作り上げたものである。」
ともあり。
p908には上社神宮寺五重塔模型の写真あり。また、『諏訪大社』p133にはとりこわされる直前に記録された上社神宮寺の五重塔の図があり。
高さに関しての記述は、
『諏訪大神の信仰』p133-134に高さの記述あり。
「延慶元年(一三〇八)当国伊那郡神峰城主知久左衛門入道行性の寄進によって建てられたもので、その高さ十六丈。かの有名な日光の廟塔をしのくこと四丈四尺、その棟甍は雲表にそびえ、堂塔は金銀をちりばめ珠玉をはめ、五剛五智の尊像を安置したと伝えられている。」
『新編 明治維新 神仏分離史料5』p450「信濃諏訪神社神仏分離事件報告」p454 14行目に上社普賢堂 五重塔の高さ等記述あり。
『諏訪信仰の中世』p271に高さの記述あり。「延慶元年(一三〇八)に知久敦幸が寄進した「五重塔」は普賢堂の北西に位置し、三間四面(5.5メートル四方)のトチ萱で、高さ二十一間(三十八メートル)の見事な造りであったという。」
『諏訪大社』p132にも高さの記載あり。
これ以上のものが見つからなかったため以上をもって案内とした。
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
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『茅野市史 中巻』茅野市/編集 茅野市 1987 <N241チ2>
(p245「諏訪神社と神宮寺」
p142-146(天正十年織田信忠の高遠城陥落から諏訪侵入まで。信忠が諏訪入りの際、神社等を焼き討ちにしたとされる記載)) - 『信濃史料 第4巻 自 安貞元年3月-至 文保元年10月』信濃史料刊行会/編 信濃史料刊行会 1969 <N208シ>
- 『諏訪市史 上巻』 諏訪市史編纂委員会/編 諏訪市 1985 <N241ス1> (p732~諏訪神社内の造寺・造仏期 p1112~社殿の焼失)
- 『下諏訪町誌 下巻 増訂』『諏訪市史 中巻』諏訪市史編纂委員会/編 諏訪市 1988 <N241ス2> (p905-908)
- 『諏訪史 第三巻』 渡辺 世祐/著 諏訪教育会諏訪部会 1954 <N241ス3> (p399-400、179-192)
- 『諏訪市史 中巻』諏訪市史編纂委員会/編纂 諏訪市役所 1988 <N241ス2> (p905-908)
- 『諏訪大社』信濃毎日新聞社/編 信濃毎日新聞社 1980 <N174ス> (p129-136 上社神宮寺)
- 『諏訪大神の信仰』宮坂 喜十/著 下諏訪町博物館 1979.7 <N241 ミ> (p133「八〇 上社の別当寺および堂塔」)
- 『新編明治維新神仏分離史料 5』 辻 善之助/〔ほか〕編 名著出版 1983 <162メ5> (p450(信濃諏訪神社神仏分離事件調査報告書)、p452(普賢堂神變山神宮寺の項)、p454(五重塔の項)、p455(海岸山神宮寺の項)、p456(三重塔の記載あり12行目))
- 『諏訪信仰の中世』福田 晃/編 三弥井書店 2015.9 <N174ス> , ISBN 978-4-8382-3288-8 (p259「諏訪の神宮寺」小林 崇仁 p269図「上社境内図」)
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『茅野市史 中巻』茅野市/編集 茅野市 1987 <N241チ2>
(p245「諏訪神社と神宮寺」
- キーワード
-
- 上諏訪神宮寺
- 五重塔
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000195834