■信濃毎日新聞の記事
詳しいいきさつが記載されている資料は見当たらなかったが、信濃毎日新聞に当時の様子が分かる記事があった。
1 『新聞にみる明治の長野』信毎書籍出版センター 1979【N212/147】
p.111 明治27年5月18日の陶器の夜灯の記事あり
2 『信濃毎日新聞』
・明治27年(1894)3月15日朝刊3面
「◎陶器夜燈寄進の計画 長野大門町なる陶器商瀧澤嘉助、稲荷山町の仝商保柳才平両氏の周旋にて名古屋の仝商加藤杢左衛門氏より代金六百圓ばかりの陶器の夜燈を善光寺開帳について寄進することとなりたるが陶器製に付保存上必要なる鉄網及び石の臺等より点燈杯の費用此他にて凡五百圓以上を要するに付瀧澤、保柳両氏は二三日前上京専ら是等に関する金圓募集の儀を仝業者に就いて相談中なるが愈々出來の上は觀なるべしと云ふ」
・明治27年(1894)5月2日朝刊3面
「◎陶器の夜燈 兼て記したる陶器の奉納夜燈は長野停車場へ到着したるに付き本日善光寺境内まで引き揚ぐる筈なるが通運開運、中牛馬三會社より数十人の人夫出で山車に従かへ本通をネリ行くよしなれば又々見物人も多かるべし」
・明治27年(1894)5月18日朝刊3面
「◎陶器の夜燈 兼て記したる陶器の夜燈は善光寺本堂前に美麗に飾り附けたり発願人は長野大門町は瀧澤嘉助更級郡稲荷山町の保科才平衛は両氏にして奉納者は東京の大盛合資會社、濃榮合資會社陶業株式會社及び重なる陶器商新潟、神奈川、岐阜、長野、松代、上田等の名有る瀬戸物商等にて製造は愛知の加藤杢左衛門氏」
「長野大門町なる陶器商瀧澤嘉助、稲荷山町の仝商保柳才平両氏の周旋にて」という記述の「周旋」とは、「人の間を取りもつこと。[狭義では、就職・雇い入れや、物品の購入などについての世話をすることを指す。]『新明解国語辞典 第八版』より」という意味があるので、加藤杢左衛門氏の依頼で瀧澤・保柳両氏が間に入って寄進する運びとなり、両氏の呼びかけで寄付を募った結果、その他地域の会社や瀬戸物商はお金を寄附する(協賛する)ことで奉納者として名を連ねたということが分かる。
■加藤杢左衛門について
調査の結果、丁度善光寺御開帳の頃、中央線建設が決まり、名古屋〜多治見間は加藤杢左衛門の居住地瀬戸を含む3ルートで誘致合戦が繰り広げられた時期と重なる。当時陶磁器の生産日本一の瀬戸に中央線を誘致すべく、加藤杢左衛門が奔走していることが分かり、燈籠寄進に関連があるのではないかと考え、参考資料として提供する。
・「
旅の人生88ヶ所めぐり」blog.個人のサイト(令和3年5月19日確認)
「鄙びの温泉へ秋の旅〜善光寺詣りのご利益〜 2019-11-17」
「瀬戸が瀬戸物の生産で活気づき全国でも有数のにぎやかな街であったころ(が本当にあった)、杢左エ門は中央線を瀬戸に誘致しようとした。というか中央線の敷設計画で、瀬戸を通るルートにしようと運動した。陶磁器の原料を安定的に調達するために瀬戸に索道(輸送用のリフトである)も作った。」とある。
また、「その杢左エ門が、中央線の誘致に失敗した結果、みずから開設に踏み切った、瀬戸の陶磁器とその材料と人とを運ぶ手段が、わが瀬戸電こと、瀬戸電気鉄道であったのだ(明治38年開業)」ともあり。
・「
名鉄瀬戸線」ウィキペディア(Wikipedia)(令和3年5月21日確認)
「主に加藤杢左衛門[5] を中心した瀬戸の実業家らの出資により、瀬戸からの鉄道敷設が実現し、1905年(明治38年)4月2日、瀬戸自動鉄道として開業した。」とあり。
3 『愛知県史 通史編 7 (近代 2)』愛知県史編さん委員会 愛知県 2017 【215.5/アイ/1-7】
p.456-457 「瀬戸での複数の会社設立に関わった加藤杢左衛門は、一八五七(安政四)年に生まれ、先代杢兵衛の養子となり、一八八五(明治十八)年に家督を相続し、陶磁器の製造業を営み、後に瀬戸陶磁工業同業組合の組合長なども歴任した」とあり、他に瀬戸銀行の専務取締役や瀬戸電気鉄道の会長などにも就いていたことが分かる一覧表あり。
4 『愛知県史 通史編 6 (近代 1)』愛知県史編さん委員会 愛知県 2017 【215.5/アイ/1-6】
p.337-338 「明治期の瀬戸には主な行政拠点はほとんど存在せず、明治末に私設の瀬戸自動鉄道(後瀬戸電気鉄道)が敷設されるまでは鉄道駅も存在しなかった。このような条件にもかかわらず、明治期の瀬戸が爆発的な人口増加を遂げたのは、陶磁器産業の集積と発展によるものであった。(五章三節)このような急激な人口増加を受けて、瀬戸町では早くも一八九三年には「町区改正」(都市計画)が議論されていた。計画は加藤杢左衛門ら陶業を担う町の有力者によって立案され(中略)」とあり、町の有力人物であったことがわかる。
p.455 愛知県で設立された鉄道について、「二つ目は瀬戸電気鉄道株式会社である。同社は、一九〇五年に瀬戸自動鉄道株式会社として、瀬戸-矢田間で開業した。さらに翌年大曽根へ路線を延長して、全線を電化し、社名を変更した」とある。
p.526-527 「両京間鉄道中山道経路を継承した中央線建設計画が進みつつある中で、瀬戸町ではいち早く一八九三年二月に町長名義で同町経由での建設を請願した(資31 219)。窯業生産の大産地として発展してきた町長にとっては、燃料の搬入や製品の搬出路を確保することが急務であったからにほかならない。ところが、中央線が同町を経ず建設することに決定すると、幹線鉄道と連絡する鉄道の敷設を考え、一九〇一年四月十七日には西春日井郡六郷村大曽根(現名古屋市北区・東区)の矢野平兵衛ほか八人が「瀬戸自動鉄道敷設願」(資31 224)を提出した。」
5 『愛知県史 資料編31』愛知県史編さん委員会 愛知県 2013 【215.5/アイ/2-31】
p.677-679 219中央鉄道敷設ニ関スル件ニ付請願 一九八三年(明治二十六)二月十五日 瀬戸
町長 水野寛
中央線敷設ニ関スル件ニ付請願 明治二十六年二月十四日 瀬戸町長 水野寛 貴族院
議長候爵 蜂須賀茂昭殿(鉄道博物館所蔵)
p.685 224瀬戸自動鉄道敷設願の件 一九〇一(明治三十四)四月十七日 矢野平兵衛 外八名
6 『愛知県史 資料編29』愛知県史編さん委員会 愛知県 2004 【215.5/アイ/2-29】
p.735 『各府県陶磁器取調書』明治十四年調査の表に瀬戸村の加藤杢左衛門 慶応二年 磁器の価格 七千五百円 の記載あり
p.736-737 354瀬戸町磁器ノ産出 一八九四年(明治二十七)五月 最近三ケ月間瀬戸町陶磁器輸出表 あり(『中央鉄道瀬戸経過線選定理由書 附瀬戸高蔵寺小牧三比較線図面』明治二十七年、交通博物館所蔵)
7 『中央本線、全線開通! : 誘致攻防・難関工事で拓いた、東京~名古屋間』中村建治 交通新聞社 2019 【686.21/ナケ/】
p.164-173 名古屋〜多治見間は3ルート案で誘致合戦 「独力で鉄道を建設しようという動きがあった多治見〜名古屋間だが、第4回帝国議会を前に三つの比較線が候補に挙げられ、綱引きが展開された。第1は中央ルートの「玉川線」(高蔵寺線とも)で、「多治見〜玉川(のちの高蔵寺村)〜春日井〜勝川〜大曽根〜名古屋間 第2は南側ルートの「瀬戸線」で、「多治見〜下半田川〜瀬戸〜鍋屋上野〜御器所〜名古屋間 第3は北側ルートの「小牧線」で、「多治見〜内津〜西尾〜小牧〜名古屋」である」結果として、瀬戸経由ルートが敗れたため「地元では中央本線に代わる陶磁器輸送を主目的とする鉄道を、自力で開業させる構想が息を吹き返す」とあり、詳しい経緯が記述されている。
名古屋乗り入れの比較線の図あり
p.220-223 年表あり
8 『名古屋鉄道社史』名古屋鉄道株式会社社史編纂委員会 名古屋鉄道株式会社 1961 【686/22】
p.285-291 瀬戸電気鉄道株式会社について 取締役として加藤杢左衛門の名前あり
「貨物は瀬戸の陶磁器・陶土・石粉・庄内川の砂利等の発送品に、石炭・薪等の到着品がおもなものであった。」
9 『名古屋鉄道百年史』名古屋鉄道 (株) 広報宣伝部 名古屋鉄道株式会社 1994 【686/22a】
p.25-27 瀬戸自動鉄道の企画 「瀬戸は古来陶磁器の大産地として繁栄してきた所だが、中央線のルートから外れたのでその原料及び製品の搬出入にもちいるため、鉄道の敷設を熱望していた。(中略)その主なメンバーは、瀬戸からは加藤杢左衛門(中略)・矢野平兵衛などであった。」
明治39年3月の瀬戸自動鉄道の路線図、名古屋周辺の鉄道網の地図あり
10 『名古屋附近の陶磁器』名古屋鉄道局 名古屋鉄道局 1928 【751/53】
p.47-55 陶磁器作成の燃料について 「陶磁器焼成用の燃料としては石炭及薪を使用するが瀬戸及東濃地方の登窯には多く薪を使用するのである。」と記述あり。薪の調達先として、大曽根駅着は長野県からは上松、多治見駅着は薮原や富士見、土岐津駅着は上松のほか洗馬、木曽福島、小野の駅名が挙げられている(昭和元年中)。また、薪の主要駅別発着件数(大正14年中)の第2位に上松の名があり、県別では長野県が2番目となっている。
p.68-69 陶磁器主要駅発府県別到着件数(大正14年中)では、長野県は12番目に多い件数となっている。
■常夜燈と善光寺信仰について(寄進目的や社会的背景について)
11 黒岩 龍也 「常夜燈にみる善光寺信仰の広がり」『長野県立歴史館研究紀要』第15号 長野県立歴史館 2009.3 p.28~45
p.35の設置の意図 の中に、「善光寺常夜燈はどういう目的で建てられるのだろうか。この理由はいたって簡単にわかる。それは多くの常夜燈に建てた目的がはっきりと刻まれているからである。刻まれている銘のなかでもっとも多いのが「為先祖代々菩提」という文字である。つまり先祖の菩提を弔うために、宿坊を通じて永代油料を添えて善光寺に石灯籠を寄進するというわけである。」とあり、p.41の表善光寺常夜燈一覧に掲載のある該当の常夜燈の正面銘には「常夜燈」の文字のみで建立目的の記載もないことから(質問者の調査済み資料にも詳しい)、先祖の菩提を弔うという目的ではないと思われる。
また、p.34に社会的背景の記述があり、寄進者として地元の長野94次いで、新潟県が16、加藤杢左衛門の居住地愛知県は13と3番目になっている。「新潟県と愛知県出身者が多いのはどちらも浄土真宗のさかんな土地柄で阿弥陀信仰と善光寺信仰との関係が深いように考える(中略)常夜燈資寄進にかかる費用の相場については後述するが、それなりの額が必要である。永代燈明料ということになると、取つぎをする宿坊の方でも毎日油を灯し続けるだけでもかなりの額を用意してもらわねば割に合わない。(中略)この四つとも商業経済の発達している地域である。」ということで、滋賀県の近江商人の例を挙げて、江戸から明治にかけ信濃にも多く進出し呉服や太物、麻布などを扱い、善光寺界隈にも頻繁に行き来していたということを返せは、たくさんの人が集まり、善光寺信仰が一般庶民の間に広がり、全国各地から参拝者が多く集まるとあり、同様に愛知県も商業の発展が目覚ましいので、寄進するのに必要な経済力があったと記述されている。
p.37 「善光寺に常夜燈を寄進する場合、善光寺宿坊が取り次ぎをし、当時のお金で三五両という永代油料が必要であった。また、これとは別に石灯籠をつくるためのお金が必要になってくるので、寄進できる人は莫大な財産を持っている人、あるいは講を組織して、大人数でお金を出し合ってやっと一基寄進することができる。つまり常夜燈建立には莫大な費用がかかるため、誰もが簡単に建てるというわけにはいかない。善光寺信仰が庶民の間に浸透するなかにあって、常夜燈建立は特殊な信仰の形態と考える。」とある。
<その他調査済み資料>
・『善光寺史研究』 小林計一郎 信濃毎日新聞社 2000 【N181/194】
・『善光寺繁昌記 初編』 長尾無墨 西沢喜太郎 1878 【N212/76/1】
・『善光寺繁昌記 明治十年、長野のにぎわい』長尾無墨 長野郷土史研究会 2008 【N212/437】
夜参りの様子や夜の繁盛の光景
・『善光寺 七年に一度の御開帳』 倉島省二 信州 1973 【N181/74】
常夜燈の数のみ記載あり
・『善光寺夜燈物語』不明 1916 【N181/111】
・『むじな夜灯』 中村ひろし 白蓮坊 【N181/305】
・『長野商工会議所百年史』長野商工会議所100周年記念事業検討委員会 長野商工会議所 2000 【N330/18a】
瀧澤嘉助の名前のみ
・『長野商工会議所六十年史』 伊東淑太 長野商工会議所 【N330/18】
瀧澤嘉助の名前のみ
・『長野市史考 近世善光寺町の研究』 小林計一郎 吉川弘文館 1969 【N212/90】
・「ふるさと歴史散歩(4)西江部の善光寺常夜燈」『高井』 第155号 高井地方史研究会 2006
・ 篠ノ井高校地歴クラブ 「善光寺境内の常夜燈について」『長野』 第41号-第43号
・ 野口一郎「吉原トップスターの広告塔か善光寺の高尾太夫常夜灯、二基の謎」『長野』 第227号
・ 小林計一郎 「善光寺常夜燈について-従来の調査」
飯島豊「善光寺境内俯瞰図を一年半余、連夜参拝を続けて作製」
常夜燈一覧の中に該当の常夜燈についての銘文あり
中村康夫 「善光寺常夜燈の銘文」『長野』 第214号
・『善光寺大門町温故知新物語』大門町 大門町 2015
・『善光寺さん』 小林計一郎 銀河書房 1979
・『なごや100年 市政100周年記念誌』名古屋市制100周年記念誌編集委員会 名古屋市総務局 1989 【215/79】
・『愛知県史 別編窯業2』 愛知県史編さん委員会 愛知県 2007
・『明治以降愛知県史略年表 産業経済編』 愛知県文化会館図書部 愛知県文化会館図書部 1980【215/46/2】
・インターネット情報
中村英三「
信州善光寺大勧進貧民養育院の事業生成と社会的役割-運営組織の陣容と地域支援-」 (令和3年5月21日確認)
滝沢嘉助の名前あり、会計として名を連ねており、陶器の夜灯を善光寺本堂前に飾り付けた発起人として紹介されている