レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年02月13日
- 登録日時
- 2013/08/16 08:56
- 更新日時
- 2016/04/06 18:47
- 管理番号
- 宇南13-00060
- 質問
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解決
飛山城について知りたい。1城下町の様子。2築城の目的。3落城の様子(1341年ごろ)
- 回答
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1城下町の様子
「関谷」や「田宿」といった小字から、関所や宿があった可能性が考えられる。(『中世下野の三都物語』p.13)
飛山城跡では、60棟以上の掘立柱建物跡が確認され、意向の切り合い関係や方位、柱間の寸法の違いなどから、少なくとも3~4時期の変遷がわかっています。その規模は、10~90㎡と様々ですが、30~50㎡のものが多く、居住用、将兵の詰所、倉庫等に使われたものと考えられます。(『東国中世の建物を考える』p.2)
飛山城跡は、東と南側を二重の堀で、西と北側を鬼怒川によって守られています。(『宇都宮氏一族の城』p.11)
『月刊文化財』(昭和51年12月号)によれば「北西側を主郭とし、以下第二郭、第三郭が南北に連なり、各郭は土塁と空堀で区画されている。東側の第二郭と第三郭の連接部に虎口を開いている。ここが大手であり、第三郭の南西隅が搦手であったと考えられる
という。(『宇都宮市教育委員会/編. 飛山城跡』p.7)
2築城の目的
飛山城がここに築かれた理由の一つは、陸路と水路を押さえる要衝の地であったことに起因すると考えられる。(『今平利幸 著. 飛山城跡』p.13)
真岡と宇都宮の中継地、自然の要害地に居城を構えた。(『.史跡めぐり栃木の城 増補改訂版.』p.48)
鬼怒川を挟んで向かい合う河内・芳賀両軍の境界領域にあたっていたからであり、ここを押さえることによって芳賀氏は鬼怒川の水運はもとより、両郡の間を行き交うあらゆる人や物を掌握することができたのである。(『史跡飛山城跡保存整備基本計画』p.38)
3落城の様子
1341年(暦応4年・興国2年)に、南朝方の春日顕国軍に攻められ落城する時期について、『今平利幸 著. 飛山城跡』p.90にある「表10 1340年前後の動き」が参考になる。
- 回答プロセス
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当館で所蔵する飛山城に関連する資料を基に回答した。
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本の建築 (521 8版)
- 関東地方 (213 8版)
- 参考資料
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史跡飛山城跡保存整備基本計画. 宇都宮市教育委員会社会教育課, 1988.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001951307-00 - 中世下野の三都物語 -宇都宮・足利・小山- 宇都宮市教育委員会 2006.1
- 東国中世の建物を考える -特に竪穴建物について- 宇都宮市教育委員会 2009.2
- 宇都宮氏一族の城 宇都宮市教育委員会 2005.9
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宇都宮市教育委員会/編. 飛山城跡. 宇都宮市教育委員会, 1977. (宇都宮市埋蔵文化財報告書 ; 第3集)
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I016520890-00 -
今平利幸 著. 飛山城跡. 同成社, 2008. (日本の遺跡 ; 29)
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000009454753-00 , ISBN 9784886214430 -
下野新聞社/編著. 史跡めぐり栃木の城 増補改訂版. 下野新聞社, 1995.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I002462893-00 , ISBN 4882860627
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史跡飛山城跡保存整備基本計画. 宇都宮市教育委員会社会教育課, 1988.
- キーワード
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- 飛山城
- 芳賀高俊
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000135422