レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2007/07/19
- 登録日時
- 2007/12/01 02:11
- 更新日時
- 2010/02/01 16:53
- 管理番号
- 埼熊-2007-055
- 質問
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解決
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の聖地であるエルサレムについて、①それぞれの宗教で、なぜ聖地になったのか(経緯)。②歴史的にみてどこが一番早くエルサレムを聖地にしたか。
- 回答
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◆ユダヤ教聖地の経緯
『聖都エルサレム』にイスラエル(ユダヤ民族)の聖地について、巻末年表に次の記述あり。『エルサレム』『図説イェルサレムの歴史』の年表にも同様の記述あり。
「紀元前千年 ダビデ、イェブスを攻略し「ダビデの町」と改称。ここに「神の箱」を安置しイスラエル統一王国の首都とした。961年、ソロモン王位につき、第一神殿と王宮を建設。以後「神殿の丘」は第二のシオンと呼ばれ、イスラエル民族統合のシンボルとなった。」
『平凡社大百科事典 15』「ユダヤ教」の項には「ユダヤ教の聖地であるエルサレムは、紀元前1000年にダビデが首都に定め、その子ソロモンがシオンの丘に神殿を建立し、エルサレムを最も重要な聖地とする信仰が生じた。」と記述あり。
◆キリスト教聖地の経緯
『図説イェルサレムの歴史』の年表には、「紀元前4年 イエス(ガラリアで)生まれる。(紀元後)30年、ナザレのイエス、イェルサレムで十字架刑に処せられる。326年コンスタンチヌス大帝の母ヘレナ皇后イェルサレムを訪問:イエスの最終晩年と関係のあった場所の確定、同地を記念する教会聖堂の建設計画」との記述あり。
『エルサレム』p46-59にはキリストの生前の活動中からエルサレムに拠っていたことが書かれている。p49-50には「326年、ローマ皇帝コンスタンチヌス帝の母后ヘレナとその一行はキリストの足跡をたどるために聖地を訪れた。・・・このようにしてエルサレムはローマ帝国公認のキリスト教の聖地として生まれ変わった。」と記述あり。
◆イスラム教聖地の経緯
『エルサレム』の年表には「(紀元後)638年イスラム軍団エルサレムを攻略」と記述され、p57-60にこの詳細が「イスラム教の創始者ムハマンドがアッラーの啓示を受けたのは610年頃だった。・・・638年にはエルサレムを包囲した。・・・同じ唯一神教としてユダヤ教とキリスト教の教えを受け継いだイスラム教は、メッカとメディナとは別にエルサレムを〈聖なる都〉と見なした。ムハマンドが一時メッカを追われメディナを遊撃した際、一年ほどエルサレムの方角に向かって祈りを捧げたという話も、イスラム教が初期のころからエルサレムを聖地として特別視してきたことを物語っている。」と記述あり。
◆歴史的にみてどこが一番早くエルサレムを聖地にしたか
『世界歴史大事典 1』「聖地としてのイェルサレム」の項に以下の記述あり。「ユダヤ教にとっては紀元前10世紀以来神殿のあった地であり、70年にローマ軍の手によって徹底的に破壊されたのちになお残る境内の西の壁(嘆きの壁)は、中世以降祈りの場として現在に至っている。キリスト教にとっては、イエスの死と復活・昇天の地であり、4世紀のコンスタンティヌス大帝にさかのぼる聖墓教会は、この町にある最も神聖な場所として多くの巡礼を惹きつけてきた。一方イスラムにとってもこの地はメッカ・メディナに継ぐ第3の聖地である。」
以上の記述、資料を提供する。
- 回答プロセス
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百科事典で概要を把握し、自館目録を〈エルサレム〉で検索。該当資料を紹介する。
- 事前調査事項
- NDC
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- 西南アジア.中東[中近東] (227 9版)
- 宗教史.事情 (162 9版)
- ユダヤ教 (199 9版)
- 参考資料
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- 『平凡社大百科事典 2、15』(平凡社 1984、1985)
- 『エルサレム』(立山良司 新潮社 1993)
- 『聖都エルサレム』(関谷定夫 東洋書林 2003)
- 『図説イェルサレムの歴史』(ダン=バハト 東京書籍 1993)
- 『ドキュメント・聖地エルサレム』(平山健太郎 日本放送出版協会 2004)
- 『イスラーム教を知る事典』(渥美堅持 東京堂出版 1999)
- 『図説キリスト教文化事典』(ニコル・ルメートル 原書房 1998)
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『世界歴史大事典 1』(教育出版センター 1986)
- キーワード
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- エルサレム-イスラエル
- ユダヤ教
- キリスト教
- イスラム教
- 聖地
- 宗教史
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 地名
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000039894