レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2011/03/09
- 登録日時
- 2012/09/26 02:00
- 更新日時
- 2017/08/23 11:36
- 管理番号
- 千県中千葉-2012-0006
- 質問
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解決
『伊能忠敬測量日記』によると、寛政12年10月9日に宮城県岩沼の竹駒明神にお参りした後に「・・・佐原油屋四郎兵衛墓へ立寄」とあるが、この油屋四郎兵衛とはどのような人物だったのか、忠敬との関係、なぜ岩沼に墓があるのか調査して欲しい。また、墓参した寺はどこにあるのかも教えて欲しい。
- 回答
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1.四郎兵衛については、『正文堂物語 第2巻』p597-608「油商」に記載されている。屋号を油四といい、「本宿の伊能四郎兵衛は、宗家的油屋であった。」と記述されており、かなり豪商であったらしい。しかし、明治25年12月25日の佐原町の大火で油屋四郎兵衛家の過去帳が焼失しており、その後の第二次世界大戦でも多くの四郎兵衛家文書が消滅した、とある。
この他『正文堂物語 第2巻』に記載されている伊能四郎兵衛に関することがらは次のとおり。
・この家系は14代四郎兵衛慎方(ちかまさ)(寛政6年6月25日没、歳67)から明らかである。(p599)
・慎方は建部綾足(たけべあやたり)を師とする涼湖の俳号を持ち、吉田神道にも関心を示した教養人であった。(p599)
・15代四郎兵衛孚充(たかみつ)(天保4年11月没)は、旅先で亡くなった義父の、14代四郎兵衛慎方を供養する意味を含めて、寛政9年に牧野観福寺の鐘楼堂を寄進した。(p599)
このことから、旅先で亡くなった14代四郎兵衛慎方の墓である可能性があるが、13代以前の墓である可能性も否定できず、確かなことは分からない。
2.『佐原市史』p974-976には、観福寺の項に伊能忠敬、伊能穎則(ひでのり)ら「伊能家の排出した学者をはじめ多数の名士の墓」があると記載されており、油屋四郎兵衛家15代孚充の子、伊能穎則と伊能忠敬は同じ伊能家であることがわかる。
3.佐久間達夫「伊能忠敬、測量先で古里の人々と会談」(『伊能忠敬研究 57号』伊能忠敬研究会 2009)p61「岩沼で、四郎兵衛慎方の墓参り」の項に「蝦夷地測量の帰路、寛政十二年十月九日、陸奥国岩沼(現宮城県岩沼市)の岩沼大明神を参詣した後、寛政六年に奥州旅行の途次、岩沼の渡辺方で死亡し遺骸を同家の墓地に埋葬してある、佐原村の伊能四郎兵衛慎方のお墓に立ち寄りお参りをした。」と記載されている。
4.観福寺については、『近世の地方寺院と庶民信仰』(長谷川匡俊 岩田書院 2007)p31-52に「佐原観福寺と伊能氏」の項あり。この項で、本堂・経蔵を除いた当時の諸堂宇が享和2年(1802)3月に焼失したとあり。焼失した中に鐘楼堂も含まれているがこれが15代四郎兵衛孚充が観福寺に寄進した袴腰鐘楼堂であるということの根拠は見つからなかった。
長谷川匡俊「佐原観福寺と伊能氏」(『論集 房総史研究』川村優編 名著出版 1982)p248-267でも読むことができる。
5.佐原の伊能家は、大きな家で、個々の人物の関係が複雑な模様。紹介した資料には、伊能家について多くの記述があるが、今回の調査で目を通した部分に、伊能忠敬と伊能四郎兵衛の間に直接関係があるという記述は見つからなかった。
6.岩沼の墓については、インターネットで検索をしたところ『岩沼市文化財だより』7号(2008.3.31)に掲載されている「伊能忠敬と岩沼」(千葉宗久著)という記事に「竹駒寺」とある。竹駒寺の現在の地番は、宮城県岩沼市桜1丁目2-49 。「明治2年(1869年)の神仏分離政策で、竹駒神社に隣接する位置から現在の場所に移った」とある。竹駒神社の地番は、岩沼市稲荷町1-1。
『岩沼市文化財だより』はインターネットで読むことができる。https://www.city.iwanuma.miyagi.jp/kanko/bunkazai/dayori.html (インターネットの最終アクセス:2017年8月22日)
- 回答プロセス
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『佐原市史』から調査。p441「第43表 佐原村の天明8年7月改酒造高」に四郎兵衛あり。
『正文堂物語』は朝野利兵衛が営んでいた書店「正文堂」について書かれた資料。「正文堂」は新聞社も立ち上げ『さはらタイムス』を発行。『正文堂物語』は佐原について、多方面にわたり記載あり。第2巻p597-608に「油商」の項あり。四郎兵衛についての記載多し。
『佐原市本宿の歴史と民俗』のp124-127「表23明治二十二年佐原町職種一覧」に「油卸売 伊能四郎兵衛」あり。
『近世の地方寺院と庶民信仰』(長谷川匡俊 岩田書院 2007)p31-52「佐原観福寺と伊能氏」の項あり。
p38に「享和2年(1802)3月には、本堂・経蔵を除いて当時の諸堂宇(客殿・庫裏・不動尊・寝所・台所・庭場・長屋一宇・鐘楼堂等)が焼失」とあり。
このときの住職は35代祐伝、この火事を契機に隠居、5年後に36代としてついだ鏡真が再建。
長谷川匡俊著「佐原観福寺と伊能氏」は『論集 房総史研究』(川村優編 名著出版 1982)にも所収。
『房総叢書 第1輯 改訂 縁起・古文書・軍記』(改訂房総叢書刊行会 1959)p201-215に「観福寺文書」所収。
- 事前調査事項
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「千葉県史料」近世篇 『測量日記之内 三』
- NDC
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- 伝記 (280 9版)
- 参考資料
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- 『正文堂物語 第2巻』(朝野雅文 聚海書林 1992) (9200287444)
- 『佐原市史』(佐原市役所編纂 臨川書店 1986 昭和41年刊の復刻) (9200287604)
- 『佐原市本宿の歴史と民俗』(千葉県立房総のむら 1992) (9200287453)
- 『論集 房総史研究』(川村 優編 名著出版 1982) (9200267871)
- キーワード
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- 伊能忠敬測量日記
- 千葉県-香取市
- 宮城県-岩沼市
- 佐原油屋四郎兵衛
- 伊能忠敬
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000111789