レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013/12/06
- 登録日時
- 2014/02/24 15:37
- 更新日時
- 2014/06/03 13:12
- 管理番号
- 埼浦-2013-079
- 質問
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解決
埼玉県を流れる荒川が、源流部から下流部まで通して「荒川」と呼ばれるようになったのは、いつ頃からか。おそらく江戸以前は、地域ごとに河川の呼び方が異なっていたのではないかと思われる。秩父市の贄川も古くは、荒川の旧称と思われる。「荒川」の地域ごとの呼称も含め、知りたい。
- 回答
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源流部から下流部まで通して「荒川」と呼ばれるようになった明確な時期は不明だが、明治以降のようである。地域ごとの旧称について記述のある資料を紹介した。
『埼玉県の地名 日本歴史地名大系 11』(平凡社 1993)
p42 荒川名称
「江戸時代においても一般には荒川という名称に統一されてはいなかったようである。」
『荒川下流誌 本編』(荒川下流誌編纂委員会編著 リバーフロント整備センター 2005)
p125 第9節 荒川流域の歴史的変遷(通史)
荒川の名称
「川の名前が、源流から河口まで1つの名称で呼ばれるようになったのは、明治以降である。荒川の場合も、それまでは流域に住む人々がてんでに異なった呼名をしていた。」
地域ごとの名称についての記述あり。
「真の沢」「入川」「大川」「荒川」「戸田川」「隅田川」「浅草川」「大川」
「ただ、江戸時代の後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』には大滝村から隅田川までを荒川と書いている。」
「図1.9.1 荒川の呼称関連地図」あり
『荒川 自然 荒川総合調査報告書 1』(埼玉県 1987)
p9-12 第1節 荒川の名称
p9「もとは地域的に異なった名称で呼ばれたと見るべきで、現に荒川の源流を受ける谷は入川と呼ばれている。(略)現荒川村の一部にはかって贄川村という村名があった。贄川の贄は普通供物を指す用語であるが、これは恐らく字を借りたのみで、実質は煮えたぎり川と言う意味が村名となったと見るべきで、荒川をニエ川と呼ぶ場合もあったことを想像させる。いずれにしても、荒川はかつて部分的に種々の名称で呼ばれていたわけで、これが統一的な名称として使用されるようになったのは、明治以降のことと見てよい。」
また、戸田のあたりを「入間川」、「戸田川」 と呼んでいたとの記述あり。
『武蔵田園簿 日本史料選書 15』(近藤出版社 1977)
p262「戸田舟渡シ九拾三間、水深七尺六尺、入間川ト云」 との記述あり。
『戸田の渡しと旅日記 中山道展』(戸田市立郷土博物館 2002)
p46「荒川は当時「戸田川」とも呼ばれており、」との記述あり。
『「埼玉県の川にまつわる郷土史」調査報告書』(日本河川協会彩の川研究会 2012)
p287「荒川七つの異名」の項目あり。
出典資料:『荒川の風 野外考古学のすすめ』
『荒川の風 野外考古学のすすめ』(吉川國男著 さきたま出版会 2000)
p10-13「川の名前 荒川七つの異名」項目あり。異名について記述あり。
「真の沢」「入川」「大川」「外川」「荒河」「隅田川」「浅草川」
「荒川の呼称関連地図」あり
『荒川読本』(元木靖編 国土交通省関東地方整備局荒川上流河川事務所 2008)
p17「荒川放水路が作られ、それまでの荒川が、隅田川、そして新しくできた放水路が荒川とよばれるようになりました。」
- 回答プロセス
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荒川関係資料にあたり記述を確認した。
- 事前調査事項
- NDC
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- 貴重書.郷土資料.その他の特別コレクション (090 9版)
- 河海工学.河川工学 (517 9版)
- 参考資料
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- 『埼玉県の地名 日本歴史地名大系 11』(平凡社 1993)
- 『荒川下流誌 本編』(荒川下流誌編纂委員会編著 リバーフロント整備センター 2005)
- 『荒川 自然 荒川総合調査報告書 1』(埼玉県 1987)
- 『武蔵田園簿 日本史料選書 15』(近藤出版社 1977)
- 『戸田の渡しと旅日記 中山道展』(戸田市立郷土博物館 2002)
- 『「埼玉県の川にまつわる郷土史」調査報告書』(日本河川協会彩の川研究会 2012)
- 『荒川の風 野外考古学のすすめ』(吉川國男著 さきたま出版会 2000)
- 『荒川読本』(元木靖編 国土交通省関東地方整備局荒川上流河川事務所 2008)
- キーワード
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- 荒川-呼称
- 河川
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000149740