1860年2月9日(安政7年1月18日)、日米修好通商条約の批准書交換のため、外国奉行(神奈川奉行兼任)の新見正興(しんみ・まさおき)を正使とする使節が、米艦ポーハタン号に乗船してアメリカに向かいました(いわゆる「万延元年遣米使節」)。横浜を出航したポーハタン号は、太平洋横断中の悪天候により傷ついた船体修理のためのハワイ寄港を経て、出発から約1ヵ月後にサンフランシスコに入港しました。使節一行はその後、当時大コロンビアの1州であったパナマを訪れ、汽車で大西洋側の港(アスピンウォール、現在のコロン)へと移動し、そこで米艦ロアノーク号に乗船して同年5月15日(万延元年3月25日)にワシントンに到着しました。同地にて、ブキャナン(James Buchanan)大統領との謁見や日米修好通商条約の批准書交換などを行った一行は、その後、ニューヨークから、アフリカ西端のポルト・グランデ(現在のカーボベルデ)、アフリカのルアンダから喜望峰をまわり、バタビア(現在のジャカルタ)、香港を経由して、同年11月10日(9月28日)に江戸に入港しました。
なお、ポーハタン号の護衛艦として共にアメリカへ渡った咸臨丸(艦長は勝海舟)は、遣米使節より1日遅れて浦賀を出航、ポーハタン号がハワイに寄港する間も単独で航海を続け、ポーハタン号より12日前にサンフランシスコに入港しました。その後、再び太平洋を横断し、同年6月23日(万延元年5月5日)に浦賀に帰着しています。
この万延元年遣米使節については、『続通信全覧』にその記録が残されています。