レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2020/07/29
- 登録日時
- 2020/10/28 00:30
- 更新日時
- 2020/10/28 00:30
- 管理番号
- 6001045310
- 質問
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解決
初代通天閣はいつ、どのような理由で解体されたのか。
- 回答
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初代通天閣が解体された時期、理由については、以下の資料に記載がある。
■『昭和大阪市史 続編 第7巻 文化編』(大阪市役所/編集 大阪市役所 1968)
p.531に「新世界の通天閣は戦時中(18年)鉄材供出のために破壊撤去され」とある。
■『新修大阪市史 第7巻』(新修大阪市史編纂委員会/編集 大阪市 1994)
p.899に「なお昭和十三年、吉本は、南大阪のシンボル新世界通天閣を買収している。しかし経営すること五年、昭和十八年一月火災により大破し、通天閣は解体・供出された。」とある。
■『通天閣30年のあゆみ』(通天閣観光 1987)
「むかし通天閣」(p.33-35)と題した文章に次の記述がある(p.34)。
「1943年(昭和18年)1月16日。ついに、通天閣にも火の手が伸びて、塔脚の部分にあった映画館『大橋座』が焼けてしまいました。」
「1943年(昭和18年)2月13日。とうとう、通天閣は300トンの鉄材に姿を変え、大阪府に献納されました。」
■『通天閣:50年の歩み』([通天閣観光株式会社/編] 通天閣観光 2007.2)
「第1章 夢とロマンをのせて「新世界」序曲(1912年~1944年)」の「3 足元の映画館炎上 初代が不幸な最期」(p.10-11)があり、次のような記述がある。
「1943(昭和18)年1月16日、通天閣のすぐ足元の映画館・大橋座が失火で炎上、通天閣も真っ赤に焼かれ、鎮火後1時間にわたって10数本のホースでようやく冷やすことができたそうだ。」(p.10)
「戦争中の金属献納運動が盛んなころで、1944(昭和19)年2月には解体され、300tの鉄屑となって政府に供出された。」(p.11)
■『実記百年の大阪』(読売新聞大阪本社社会部/編 朋興社 1987)
p.530-531に通天閣に関する記述がある。
「昭和十八年一月十六日、芦辺劇場西隣の映画館・大橋座から出火、付近の興行街をひと舐めにし、通天閣も「地上百尺まで真っ赤に焼かれ、鎮火後一時間余、十数本のホースで漸く冷却」(大阪朝日新聞)された。「これでは危ない」と言っていたところへ、供出の嵐が通天閣にも及び、お国のために翌二月、解体され三百トンの屑鉄に変わり果てた。」(p.531)
■『大阪モダン 通天閣と新世界 気球の本』(橋爪紳也/著 NTT出版 1996)
「4 「光の街」から「影の街へ ~街ができてから~」p.173-176に「通天閣炎上」がある。
「昭和一八年一月一六日、タワーの足元、花月亭の西隣に位置する大橋座から失火があった。」(p.174)
「「お国のため」という大義名分のもと、ようやくにして軍部に供出されることとなった。新世界で遊んだ人すべての想いを引き受けてくれた塔は解体され、三〇〇トンの鉄の塊に戻される。」(p.175-176)
■『大阪市の昭和 写真アルバム』(樹林舎 2018)
p.64-66に「フォトコラム 初代通天閣の炎上と解体」に次のような記述がある。
「大阪のシンボル的存在として市民に親しまれた通天閣であるが、昭和十八年一月十六日、付近の映画館で火災が発生し、通天閣も類焼して脚部に被害を受けた。折しも太平洋戦争のさなかであり、金属類回収令が施行されていたことから、通天閣も解体されて供出されることとなった。二月十三日に解体式が執り行われ、塔は上部から順に解体されていった。工事は四月に終わり、通天閣は三百トンの鉄材となり姿を消した。」(p.64)
なお、p65-66には、炎上する通天閣の写真(p.65)や解体される通天閣の写真(p.66)などが掲載されている。
[事例作成日:2020年7月29日]
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 観光事業 (689 10版)
- 参考資料
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- 昭和大阪市史 続編 第7巻 大阪市役所∥編集 大阪市役所 1968
- 新修大阪市史 第7巻 新修大阪市史編纂委員会∥編集 大阪市 1994.3
- 通天閣30年のあゆみ 通天閣観光 通天閣観光 1987.3
- 通天閣 [通天閣観光株式会社∥編] 通天閣観光 2007.2
- 実記百年の大阪 読売新聞大阪本社社会部∥編 朋興社 1987.1
- 大阪モダン 橋爪/紳也∥著 NTT出版 1996.7
- 大阪市の昭和 樹林舎 2018.11
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 大阪
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000288714