レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 20190111
- 登録日時
- 2020/09/17 00:30
- 更新日時
- 2020/09/17 00:30
- 管理番号
- 0001003531
- 質問
-
未解決
琉球王国から近代にかけての沖縄県民の識字率や、教育について知りたい。
- 回答
-
以下により資料を紹介した。
琉球王国時代の識字率についての資料は見つからなかったが、一般農民・平民の教育機関はなく、その多くは文字を理解していなかったことから、一般平民の識字率は高くなかったことがうかがえる。(参考資料①)
琉球で最初の「学校」は久米村子弟の教育機関として設立した明倫堂であった。(参考資料②④)
18世紀後半ごろから各間切に筆算稽古所・会所とよばれる初等教育機関が置かれはじめ、士族子弟のほか一部の平民層の子弟が通った(資料①~④)
その後王府が首里に公学校(のちに国学と改称)、平等学校を創立。また、村学校や家塾も存在した。これらにより、19世紀なかばには首里・泊、那覇の士族男子はほぼ全員が就学したが、女子は就学できなかった。(参考資料①③④)
女子の教育については、明治十八年三月に付属小学校内に女児の教場を設けたのが最初であろうと言われている。(参考資料④)
廃藩置県前後においても、就学は主に士族のみであり、平民と女性の識字率は低かった。(参考資料④⑤)
【参考資料】
①
『沖縄県の教育史』(浅野 誠/著 思文閣出版 1991.12)
p59 「これらの文字、特にワラザンや記標文字は…民衆の日常生活のなかで多様に使用されたが、文字を理解できない一般農民に対する租税徴収にかかわって重要な役割を果たした点が注目される」の記述がある。
p93 「十八世紀後半から設立されはじめる筆算稽古所は、当初間切に一、二か所置かれる程度であった。」「生徒は筆算稽古人(すみならやー)とよばれ、七、八歳で入学し、六、七ヶ年、ないしは八、九ヶ年稽古したが、二十歳位のものもいたという。」の記述がある。
p113に「一七九八年、王府は首里に公学校と平等学校三か所を創設した。ここで公学校というのは、孔子廟(聖廟)が付設されていないのは国学ではなく書院と称すべきだとする久米側からの異義申し立てによって、国学名称が保留されたものである。」の記述がある。
p120-121 「なお村学校の他に家塾なども存在しており、かくして村学校を含む諸学校の設立によって、十九世紀半ばごろの首里・泊・那覇においては、士族男子のほぼ全員就学という状況にいたった。なお久米ではすでに十八世紀にそうした状況ができていた。」「首里・那覇に住んでいた町方百姓はこのような学校に就学していない。」の記述がある。
②
『近代沖縄の教育』(安里 彦紀/著 三一書店 1983.2)
p35 「享保三(一七一八)年、朱子学者程順則の建議によって、久米村に明倫堂が設立された。…しかしながら、明倫堂は久米村子弟の教育機関として設立されたものであって、未だ公的かつ全藩的な意味の学校ではなかった。その頃、王府の所在地である首里にも、琉球唯一の貿易港として栄えた那覇にも、未だ学校は設立されていなかった。」の記述がある。
p46-47 「村学校は主として、七、八歳の児童を教育するいわゆる初等教育機関であった。」「しかし、村学校は、下級普通教育機関とはいうもののその教育目的からいっても、その教育内容からいっても、首里、那覇に限定されたことから考えても、…官吏養成のため、士族子弟を対象とする初等教育機関にすぎなかった。」の記述がある。
p50 「しかし田舎百姓の子弟でも、ごく少数の者は、藩吏、地方役人の下役養成のための教育を受ける機会はあった。それは、行政区画の末端である村毎に(最初は間切毎に)「筆算稽古所」と称する村学校に類するものである。」の記述がある。
p79に 「…また、「筆算稽古所」では、これ〔「御教条」〕を教科書として、読み、書きを学習させた。」の記述がある。
③
『近代沖縄における教育と国民統合』(近藤 健一郎/著 北海道大学出版会 2006.2)
p45 「ここで簡単に琉球王国末期の学校制度の特徴を整理しておく。この時期には、首里、那覇、泊(沖縄島南部)に村学校という初等教育機関があり、さらに首里の村学校の修了者を入学対象者とする平等(ひら)学校が首里に三校、さらにその修了者を入学対象者とする国学が首里に一校あった。そのほかに、久米に明倫堂という中等教育機関があり、各間切には筆算稽古所、会所などと呼ばれる初等教育機関があった。」の記述がある。
p46 「特徴の第一は、就学者である。村学校、平等学校、国学は、基本的に士族を対象としていた。また筆算稽古所は士族のほか、末端の行政を遂行する地方役人に将来なる奉公人と呼ばれる平民層の子弟が就学していた。女子は就学できなかった。」の記述がある。
p59 「沖縄における就学者数、就学率の変化(1879~1888年)」の表が掲載されている。
p68 「沖縄における小学校児童の出席率(1879~1888年)」の表が掲載されている。
p174 「沖縄における就学者数、就学率の変化(1895~1904年度)」の表が掲載されている。
④
『沖縄縣史 第4巻 各論編3 教育』 (琉球政府/編 発行 1966.6)
p46 「…一六七四年にいよいよ聖廟が久米村に建立された。一七一八年(享保三年)名護親方程順則の建議により、同域内に明倫堂が建てられた。これが沖縄の公教育の始まりだとされる。但し明倫堂はただ久米の子弟のみに開放された。」の記述がある。
p50 「…公教育機関の整備に踏み切ることになり、一七九八年(尚温王即位四年)に国学が創立されたのである。」p51「出発当初は「公学校所」という名称で…一八〇一年…建学移転され、初めて公式に国学と称した」の記述がある。
p59 「一七九八年国学の創立と同時に平等学校が設けられた。国学の大学高等教育であるのに対し、これは中等教育である」の記述がある。
p62 「村学校の設立は国学と平等学校に遅れて出発した。…一番最初に建てられたのは泉崎の村学校であった。…一八二四年、村内の大湾親雲上が私費を以って…校舎に当てたので、町内の人々が修理費を醵金して…校名を学道館と附けた。村学校の名称は、このように何々館とか何々斎と附けられ…これらは大体において、民意の盛り上がりによって、また寄付や醵出によって創立された」の記述がある。
p64 「百姓庶民の教育はなおざりにされていたが、それでも原則として各間切に「筆算稽古所」が設けられ、また首里の御殿奉公による学習機会とがあった。」の記述がある。
p67 「八重山では稽古所を会所と称し、むしろ那覇四町の村学校に類似していた。即ち就学者は士族のみに限られ…」「御殿奉公は純粋の教育機関ではないが、千五百年代の中期から始まったようで、平民の子弟が学習機会をつかむ為にも、皆争ってそれに参加した。」の記述がある。
p.527「明治十八年三月附属小学校内に女児の教場を設け女児を入学させたのである。これは廃藩後始めての女児教育であるばかりでなくまた沖縄の歴史あって始めての女子の教育であったのだろう」「他の都市の女児就学は…漸く明治も三十年になってからであった。」
⑤
「琉球備忘録」(河原田盛美/著)『沖縄縣史 第14巻 資料編4 雑纂』(琉球政府/編 復刻版 1989.10)p201-224
p203 「…当藩ノ慣習ニ平民ノ学校ニ入ルヲ免サス婦人ノ学問スルヲ厳禁ス故ニ農戸ニ至テハ一丁字ヲ知ラサル…」の記述がある。
p223 「…小学校アリト雖モ爰ニ入校スルモノハ士族ノミニテ平民ヲ拒ミ婦女ハ仮令王妃貴族ト雖モ一字ヲモ学ハサル慣習ナリ故ニ平民ト婦女ハ己ノ名ヲモ知ルモノナシ天品ノ人才ト雖トモ成規外ノ書籍ヲ読ムコト能ハス…」の記述がある。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
-
- 沖縄県の教育史 浅野 誠/著 思文閣出版 1991.12 (p59、p93、p113、p120-121)
- 近代沖縄の教育 安里彦紀/著 三一書店 1983.2 (p35、p46-47、p50、p79)
- 近代沖縄における教育と国民統合 近藤 建一郎/著 北海道大学出版 2006.2 , ISBN 4-8329-6541-7 (p45、p46、p59、p68、p174)
- 沖縄縣史 第4巻 各論編3 教育 琉球政府/編 復刻版 国書刊行会 1989.10 (p46、p50、p59、p62、p64、p67、p527-528)
- 沖縄縣史 第14巻 資料編4 雑纂 琉球政府/編 復刻版 国書刊行会 1989.10 (p203、p223)
- キーワード
-
- 教育
- 学校
- 就学率
- 就学者
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000287252