レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2023/11/18
- 登録日時
- 2023/12/13 00:30
- 更新日時
- 2023/12/13 00:30
- 提供館
- 宮城県図書館 (2110032)
- 管理番号
- MYG-REF-230128
- 質問
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解決
養賢堂に関する、以下のことについて知りたいです。
(1)いつ頃まで県庁舎として使用されたのでしょうか。また、大正時代の県庁舎の位置がわかる資料はありますか。
(2)県庁舎として使用されなくなった後はどのように使用されていたのでしょうか。
(3)養賢堂の門構えについて記載のある資料はありますか。
- 回答
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下記の当館資料でお調べしました。※【 】内は当館の請求記号です。
併せて、国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/ 最終検索日:2023/11/18)で調査し、関連する資料を御案内します。
(1)養賢堂の県庁としての使用と大正期の県庁舎の位置について
資料1 宮城県総務部県庁舎建設室 編『さよなら昭和の殿堂 : 旧宮城県庁舎の記録』宮城県総務部県庁舎建設室, 1986年【K526/ミ4】
p.22「庁舎の歩みと宮城県」の項の大正4年に「宮城県庁舎移築工事完成」とありました。
資料2 『宮城県の百年』宮城県企画部, 1972年【K318/ミ10-6/タ】
p.51「昭和期・戦前」の項
昭和6年当時の県庁敷地及び付近の建物配置図に「(前略)旧庁舎・養賢堂(庁舎の一部として使用) 警察部・池・武徳殿・商品陳列所・県図書館や官舎等があり、(後略)」と解説がありました。養賢堂の東側に「県庁舎」と表記された建物があり、これが大正期の庁舎と思われます。
資料3 宮城県史編纂委員会 編『宮城県史』11 教育, 宮城県史刊行会, 1959年【212.3/1957.3/11】
p.42「第一篇 藩政時代の教育」-「第一章 仙台藩の藩学」-「第八節 養賢堂が及ぼした影響」の項
「廃藩置県後、養賢堂の講堂は、昭和六年に現在の県庁舎が建設されるまで、本庁舎として長い間に亙り使用されて来た。この間大正十一年三月八日内務省史蹟名勝天然記念物調査規定により、史蹟として指定された。」と記載がありました。
資料4 『月刊建設』25(4), 全日本建設技術協会, 1981年〈info:ndljp/pid/3240463〉※図書館送信参加館公開の資料です。
pp.62-63 大庭勇夫「庁舎ものがたり(7) : 宮城県庁の巻」の項
p.62「伊達藩時代の藩校として、文化14年、養賢堂が現在の本庁舎の西側に建てられ、藩の学問所として教育・文化の殿堂であったが、明治維新後は県庁舎として使用されて来たのが、県庁舎のそもそもの初まりである。(中略)その後、間もなくして県会議事堂を別に建て、警察部を建て、さらに木造二階建ての庁舎を、大正4年9月に建てられたのである。(中略)我々には一昔を予測することは難かしいが、養賢堂・木造二階建の庁舎も、当時の急速に発展する時代と、増大する行政に耐えられず、間もなく手狭となって来たのである。」とあり、その後昭和6年に新たに本庁舎(現在の旧庁舎)ができ、昭和20年の仙台空襲で養賢堂が焼失したことが記されていました。
(2)養賢堂の用途について
資料3, p.42「第一篇 藩政時代の教育」-「第一章 仙台藩の藩学」-「第八節 養賢堂が及ぼした影響」の項
「この史蹟養賢堂の講堂は、昭和十七年十一月に至り、加藤於兎丸知事の時代、県会に於て県民の精神作興の修練道場として再興し、永くこれを保存することなどが議決された。」と記載がありました。
資料5 菊地勝之助 編『養賢堂要覧』菊地勝之助, 1943年【K372/キ1】
p.18「養賢堂沿革概要」の項
「昭和十八年十一月十日 養賢堂開堂式を十一月十日国民精神作興に関する詔書御下賜記念日に挙行し、左の諸式会を行ふ。 1、開堂奉告祭 2、開堂式 3、記念講演会 4、養賢堂関係遺物展覧会」とあり、同資料には「養賢堂規程」等も記載されています。
養賢堂は県庁舎の用途を終えた後は、「修練」のための施設として昭和十八年から位置づけられ、使用されていたようです。
(3)県庁舎の門について
資料6 小倉強 著『宮城県内にみかける洋風建築』(振興相互銀行だより ; 76号), 振興相互銀行, 1972年【K521/オ1-3】
p.20「宮城県庁」の項
「(前略)養賢堂の堂々たる正門(註)を払下げ洋風ペンキ塗の正門をたてた。「第一撤廃せられたるは表門なり。旧式の門なりとて払下げ殊更にペンキ塗の柱門を建てて西洋風の門はこれなりと、いはんばかりに得々として世に誇るものの如し」と洋風讃美に慨嘆した人もあった。 註-仙台市南鍛冶町泰心院に現存す。」と記載がありました。
資料3, p.40「第一篇 藩政時代の教育」-「第一章 仙台藩の藩学」-「第七節 知学局開設と養賢堂廃止」の項
「当時、国運勃興の気勢は万事百般にあふれ、何時も旧を捨てて新につくを以て能事と考えたので、破壊を以て革新と曲解した。その気勢は滔々として大潮のようであつたので、養賢堂もその余波を蒙り廃校の運命に立ち至つた。かくて第一に撤廃されたのが表門であつた。この門は大笠門で現在の東京大学の赤門のような形の堂々たるものであつたが、旧式な門として払下げられた。今仙台市南鍛冶町にある泰心院の大笠門はそれであるといわれている。取り払つたあとは西洋風のペンキ塗の柱門が建てられた。(後略)」と記載がありました。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 各種の建築 (526 9版)
- 参考資料
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- 宮城県総務部県庁舎建設室/編. さよなら昭和の殿堂. 宮城県総務部県庁舎建設室, 1986【K526/ミ4】:
- . 宮城県の百年. 宮城県企画部, 1972【K318/ミ10-6/タ】:
- 宮城県史編纂委員会?編 宮城県?著. 宮城県史 11. 宮城県史刊行会, 1959.01【212.3/1957.3/11】:
- 菊地 勝之助/編. 養賢堂要覧. 菊地勝之助, 1943【K372/キ1】:
- 小倉 強/著. 宮城県内にみかける洋風建築. 振興相互銀行, 1972【K521/オ1-3】:
- キーワード
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- 宮城県庁
- 官庁建築
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000343374