下記①~④の資料で各回の人数は確認できるが若干差異がある。正使・副使の名前については②④で確認できる。
各回の記録については③④で確認できる。
十一次の人数は①通説:四七二、私説:四七七、②③④四七七、⑤四八四と人数は違っていた。十一次の名簿は⑤で確認できる。
①三宅 英利『近世の日本と朝鮮』p46-51 「(3)使行人員の問題」で「とりわけも問題となるのは、各使行の人員が正確に算定できないことである。」と論じてはいるが、p47「表1 近世通信使行人員数の比較」で各回の「通説」「私説」の人数を表している。第十一次人数は通説:四七二、私説:四七七であった。
②辛 基秀,仲尾 宏『図説・朝鮮通信使の旅』p122-123 「朝鮮通信使聘礼年表」で各回の「年代」「正使」「副使」「従事官」「聘礼目的(朝鮮側意図)」「附属聘礼地」「饗宴[祝奏演]」「特記事項」「総人員(大阪留)〔京都留〕」が一覧となってた。
総人員の算定は①の同著者「三宅英利「近世日朝関係史の研究」によった」との記述があり、総人員は第十次のみ人数が異なっていたが他は①②で人数は同じとなっていた。第十一次人数は四七七であった。
③仲尾 宏 『朝鮮通信使と壬辰倭乱』p238-239 「表13 朝鮮通信使来日年表(京都関係を中心に)」で各回の「年代」「正使」「総人員( )内大阪留」「使命(名目)」「京都所司代」「京都御馳走役」「往路京都滞留日程」「復路京都滞留日程」「旅館」が一覧となっており、総人員は第十次の大阪留の人数が②と異なっていたが他は②と同じであった。第十一次人数は四七七であった。
③p300-301 「表15 江戸時代朝鮮通信使使行録一覧表」で「年代」「著者[職名][姓名(号)]」「書名(編数)」「文体」「附篇」「頭初地点・月日」「末尾地点・月日」「所収又は所蔵」「所蔵[大系本][群書本]」「備考①」「備考②[座目記載][人員記載]」が一覧となっており、どの回が記録に残されているか表になっていた。
人員は②と第八・九・十・十二次で異なっていた。第十一次人数は四七七であった。
④仲尾 宏『朝鮮通信使』巻末「朝鮮通信使一覧表」では「年代」「正使」「副使」「従事官」「製術官」「書紀」「訳官」「写字官」「画員」「良医」「医員」「接伴僧」「使命」「総人員(大阪留)〔京都留〕」「使行録」「備考」が一覧となっており、総人員は②と同じであった。第十一次人数は四七七であった。
宝暦・第十一次の記録の一つである下記に名簿の記載があった。
⑤金 仁謙著,高島 淑郎訳注『日東壮遊歌』p13-16,「癸未通信座目[名簿]」に「正使」以下十七種二十八名の役職・名前が記載されているが、「不完全なものと思われる(中略)より詳しい名簿は解説[四]の座目参照のこと。」との記載があった。
p407-418 「[四]座目(名簿) 癸未通信使(日本では宝暦信使・明和信使)一行の座目(名簿)を、『海槎日記』の「三使一行録」を基に、『日東壮遊歌』、『宝暦十四年朝鮮使記』第二冊、「我英宗癸未八月初三日自京発東槎行」(『日本雑誌』所収)等を参考にして作成した。(略)」との記載があり、
「正使」以下「使奴子」三十一種までの役職の一〇二名の名前が記載されていたがそれ以下の役職は名前の記載は不完全であった。
全体の人数は「三使三名・上官三九名・次官一三名・中官一七八名・下官二五一名 合計四八四名(6)」「(6)四八四名 人数は史料によって若干差がある。この四八四名も上記の人員の合算に過ぎない。」となっていた。