レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013/06/07
- 登録日時
- 2014/04/12 00:30
- 更新日時
- 2014/04/19 13:55
- 管理番号
- 6001001272
- 質問
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未解決
幕子は盛岡南部家五代行信の娘ですが、南部家の史料によりますと、元禄七年に輿入れして、元禄九年に重興が没したため「帰父家」とあります。剃髪して、そのまま婚家に残る道があったと思いますが、そのあたりの理由を知りたく思います。小出家が改易になったからかとも考えておりますが、明確な資料がありましたらお知らせください。
- 回答
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調査の結果、小出家に残らなかった理由については、残念ながらわかりませんでした。「幕子」は、小出重興死去の四カ月後に跡継ぎの兵部が死去して、その三日後に戻っています。和泉陶器藩についての資料が少なく、南部藩側の資料についても、当館所蔵分では、この間の事情に触れた資料は見つけられませんでした。
以下に、長くなりますが調査資料を記しますので、参考にねがいます。
(【 】内は府立図書館請求記号)
① 和泉陶器藩について
◆『堺市史』続第1巻 堺市役所 昭和46年 【216.3/200N】
p.539~542 陶器藩の断絶
「幕子」についての記載なし。
② 南部藩について
◆『盛岡藩雑書』第6巻(元禄5年~元禄10年) 盛岡市教育委員会盛岡市中央公民館 熊谷印刷出版部 平成4年 【212.2/9N/6】
この資料は、盛岡藩家老席日誌などと呼称されている家老の執務日誌というべきもので、この日誌のなかから、「幕子」についての記載をたどりました。
p.373 「おまく様縁組」 元禄7年5月19日の項
(一.おまく様小出玄蕃様ヘ御縁組之儀、従此方中山兵右衛門様、従先様妻木彦右衛門様を以被迎人候之処、御仲間被迎談候間、・・・)
p.656 「おまく婚礼」 元禄9年2月4日の項
(・・・右ハおまく様御婚礼ニ付、為御餞今日江戸御飛脚便ニ上之)
p.673 「幕子小出玄蕃と婚礼」 元禄9年3月7日の項
(一.去月廿六日小出玄蕃様へ おまく様御婚礼首尾能相調、酉后刻御入輿、重信様奉始御一門様方御下屋敷へ被為入終日御被遊、同廿八日三目之為御祝儀皆子餅御双方御取遣相済候之由、去月廿八日付日戸五兵衛より飛札ニて申来、此節御輿渡日戸五兵衛、御貝桶渡岸半右衛門被 仰付相勤之、玄蕃様被召出御盃頂戴、銀三枚宛被下置由
一.御輿ハ高林左太夫、御貝桶岡村九太夫と申御家老請取候由)
p.674~675 「幕子婚礼ノ客」 元禄9年3月7日の項
(右婚礼ニ付廿六日御招請之御客・・・)
p.675 「婚礼祝儀」 元禄9年3月8日の項
(一.小出玄蕃様御新造様へ、高知の面々より為御祝儀御肴一折宛指上候様、御目付黒沢喜兵衛より手紙を以申遣、但し凶年故右之通御肴計上候様ニと申渡ス、書状添不申筈也)
p.676 「幕子婚礼祝儀飛脚」 元禄9年3月10日の項
(一.おまく様御婚礼之御悦御飛脚、江戸ヘ被遣)
p.696 「小出玄蕃病気」 元禄9年4月13日の項
(一.小出玄蕃様御気色勝不申、渋江松軒老・橘隆庵老御療治候得共御不快ニ付、御舎弟兵部様を養子ニ御願上、仙石伯耆守様を以御老中土屋相模守様迄被仰上候之処、御年若之事候間折角養生被成候様ニ、節目なる養子御願候請取置候と御挨拶被成候由、右之旨小出和泉守様より若殿様(実信)ヘ被仰進由、四月五日付日戸五兵衛より申来)
p.698 「小出玄蕃死去」 元禄9年4月16日の項
(一.小出玄蕃様、兼て少々御病気之処去月末より御勝不被成付、色々御養生被成候得共不被爲叶、去九日明寅刻御死去被成之由、同日未刻付御飛脚昨日下着、因之昨晩より五日鳴物等停止可仕旨御町中ヘ被仰付、但高知・物頭之面々爲伺御機嫌罷上候儀は無用之由被仰出)
p.759 「小出兵部死去ニツキ幕子引取」 元禄9年8月21日の項
(一.小出兵部さま去七日御死去、依之 おまく様同十日之晩九ッ時此方へ御引取被成候由)
p.814 「江戸へノ歳暮祝儀」 元禄9年12月13日の項
(一.殿様より江戸上々様方ヘ歳暮之御祝儀被進覚・・・御肴一折
若殿様・主悦様・主計様・右近様・大助様・吉助様・主悦様奥様・主計様奥様・お七様・おまく様・小督様ヘ)
◆『盛岡藩雑書』第7巻(元禄11年~元禄15年)【212.2/9N/7】
p.26 「光源院荷物請取役人任命」 元禄11年3月21日の項
(御部屋様光源院様御道具、江戸より船ニて、段々下候付て請取此方へ遣候役人、花巻より弐人付遣候様ニと申遣所、小山田善左衛門・太田半次郎申付候由、当廿日付高野庄兵衛申上之)
◆『南部叢書』第二冊 南部叢書刊行会 昭和3年 【035/7】
系譜 p.320
六 御女子 幕子
嫁毛利高久依離縁再嫁小出玄蕃重興。重興死去帰盛岡、享保十三年八月十九日卒。光源院殿貞林賢惠大姉、葬于大慈寺。
◆『南部史要』菊池悟郎稿 明治44年 (国立国会図書館デジタル化資料より)
p.146~147
五女幕子は毛利駿河守高久に嫁せしも離縁となり、更に小出玄蕃頭重興に嫁せしも間もなく重興死し、重興の弟兵部跡を継ぎしも俄かに死したるを以て国除かれ、為に幕子は我に復帰す。
②の『盛岡藩雑書』によりますと、縁組の話が元禄7年5月にあり、婚礼が、元禄9年2月26日に行われ、4月9日には、小出玄蕃が死去しています。婚礼からその間40日程です。そして、後継ぎの兵部も8月7日に死去しました。
日記には、「小出兵部様去七日御死去、依之 おまく様同十日之晩九ッ時此方へ御引取被成候由」と書かれています。「これによりて」と結果が書かれていますが、その間の事情については書かれていないのでわかりません。
その後、元禄9年12月末に「おまく様」と云う名で最期の記載があり、元禄11年3月に光源院と名が変わって記載されるまでの間の日記には、「幕子」についての記載はありませんでした。
[事例作成日:平成26年2月28日]
- 回答プロセス
- 事前調査事項
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盛岡南部家『御系譜』五代行信の条
- NDC
- 参考資料
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- 土芥寇讎記 金井/円∥校注 人物往来社
- 藩史大事典 第5巻 木村/礎∥[ほか]編 雄山閣出版 (277)
- 新編物語藩史 第7巻 新人物往来社 (175~211)
- 恩栄録・廃絶録 [小田/彰信∥編纂] 近藤出版社 (298,343)
- 堺市陶邑東陶器村西陶器村の歴史 岡本/寅一∥著 岡本寅一
- 岩手県史 第5巻 岩手県∥編纂 杜陵印刷 (386~392)
- 南部藩記 太田/俊穂∥著 大和書房
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- その他
- 内容種別
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000152058