レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2021/04/05
- 登録日時
- 2021/10/09 00:30
- 更新日時
- 2021/10/09 00:30
- 管理番号
- 6001009662
- 質問
-
解決
良寛(1758-1831年)は、玉島円通寺から船倉町向山の長連寺まで徒歩で行ったか、船を使ったか。
- 回答
-
良寛の玉島での修業期間は1779年から1790年。円通寺の国仙和尚に師事した。
1673ー1680年、高梁川の高瀬舟は船穂ー玉島間に運河・高瀬通しを整え、河川交通を進展させていた。新見市広石には1795年6月に遭難した15人の「溺死為菩提」の碑があることから、高瀬舟は当時から一般的に物資だけでなく、旅人や商人も乗せていたことがわかる。また高梁川の高瀬舟が物資や人を乗せて玉島港から直接四国の坂出・丸亀・高松にも渡った事例も知られている。(※1)(※5)
1852年の定めでは、新見ー松山(高梁)間で人一人の運賃が上水の時一匁五分(約1500円)。玉島まではこの2倍であったという。(※2)
一方、倉敷川は倉敷村と児島湾を結び、小舟で物資を運ぶ運河・船入川(汐入川)である。倉敷船(海船)の行動範囲は大坂から九州の間が主体であったと考えられる。人を運んでいたという記述は見当たらなかった。(※3)
ところで、江戸時代の移動手段は徒歩が中心で、玉島から倉敷村へは、玉島往来、鴨方往来を通り、浜ノ茶屋から倉敷道に入って倉敷村に至るルートがあった(google mapで計測すると約17km)。(※4)
河井継之助(1827-1868)が『塵壺』に、朝松山(高梁)を立ち、美袋ー山陽道ー玉島に泊まると記録している(同約60km)。玉島から船で金毘羅詣でをしたとも書いている。(※5)
船便説を否定はできないが、距離、江戸時代の旅事情、交通網、高瀬舟の航路、廻船の運行には風待ち・潮待ちが発生する事等から推し量ると、徒歩だったと考えるのが妥当ではないか。(※6)
※1 『高梁川を科学する part1』岡山理科大学『岡山学』研究会/編 吉備人出版
※2 『玉島むかし昔物語 正編』渡邊義明/著
『岡山県吉備郡昭和町水内の高瀬船と船頭』山本剛/著
※3 『新修倉敷市史 3』倉敷市史研究会/編集 山陽新聞社
『新修倉敷市史 8』倉敷市史研究会/編集 山陽新聞社
※4 『高瀬通し 玉島往来 倉安川』岡山県教育委員会/編 岡山県教育委員会
『金毘羅往来と由加往来 倉敷往来 鴨方往来』岡山県教育委員会/編 岡山県教育委員会
『鴨方往来拓本散策』坂本亜紀児/編著 日本文教出版
『「道」の文化史』中国地方総合研究センター/編 中国地方総合研究センター
※5 『塵壼』河井 継之助/著 平凡社
※6 『おかやまの交通・今昔物語』太田 健一/監修 岡山放送
参考「備前備中道筋併灘道船路帳」1647年 池田家文庫
(『岡山の古文献』中野美智子/著 日本文教出版 p105~)
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
-
- 高梁川を科学するpart 1岡山理科大学『岡山学』研究会/編吉備人出版 (p81~89)
- 玉島むかし昔物語 正編渡邊 義明/著 (p117~120)
- 新修倉敷市史8倉敷市史研究会/編山陽新聞社 (p190~224)
- 新修倉敷市史3倉敷市史研究会/編集山陽新聞社 (p373~402)
- 高瀬通し 玉島往来 倉安川岡山県教育委員会/編岡山県教育委員会
- 金毘羅往来と由加往来 倉敷往来 鴨方往来岡山県教育委員会/編岡山県教育委員会
- 鴨方往来拓本散策坂本亜紀児/編著日本文教出版 (p62)
- 塵壼河井 継之助/著平凡社 (p70~73)
- おかやまの交通・今昔物語太田 健一/監修岡山放送 (p102、p105、p108)
- 「道」の文化史中国地方総合研究センター/編中国地方総合研究センター (p180~184)
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 一般
- 登録番号
- 1000305841