●物部守屋の奴が四天王寺の奴婢となった→
1.『日本書紀』巻第二十一 崇峻天皇 即位前紀
【平乱之後、於摂津国、造四天王寺。分大連奴半与宅、為大寺奴田荘。】(テキストは旧字体)
2.『四天王寺誌』【~守屋の奴と宅とを分けて、寺の奴婢、田荘となし給ひ、寺号を四天王寺と定め給ふ】
●物部守屋の子孫従類が四天王寺の奴婢となった→
3.『四天王寺御手印縁起』(『荒陵寺御手印縁起』として『続群書類従 巻第八百二』に所収)
【駆摂守屋子孫従類二百七十三人。為寺永奴婢。】(テキストは旧字体)
4.『日本歴史』299号 「物部戦争と太子・四天王寺」今井啓一
【四天王寺の根本縁起である御朱印縁起にも、「駆摂守屋子孫従類二百七十三人為寺永奴婢」・・・守屋の滅後、その子孫・資材・田宅を寺分としたということは伝暦・御記など所謂太子物や今昔物語・扶桑略記・元亨釈書等々、ほぼ同工をしるしている】
5.『卑賤観の系譜』(神野清一、吉川弘文館、1997)
【四天王寺に没入されたのは、八世紀の『日本書紀』では「奴」だが、十世紀初めの『聖徳太子伝暦』では「子孫資財」と書かれ、さらに十一世紀初めごろに偽撰された『四天王寺御手印縁起』では、「子孫従類二百七十三人を寺の永奴婢と為す」と記される】と、奴(大連支配下の隷属民)が大連の係累というのは後世の潤色という論が展開されている。
●四天王寺の奴婢となった物部守屋の従類の子孫が公人となった→
6.『天王寺誌 第八巻 役人記』(『四天王寺史料』に所収)
【公人三拾二人 公人者、守屋臣之従類之裔、~】(テキストは返り点等あり)
7.『大阪府の民俗 1』「四天王寺のドヤドヤ 四天王寺の修正会」
【寺の方での世話役は門役(モンヤク)または公人(クニン)というものである。『寺誌』(稿本)に『続日本紀』神護景雲元年十月二十五日の条に「賜四天王寺家人奴婢*二人爵有差」とあるをひいて「奴婢者守屋之従類今ノ公人之始世」とあるように聖徳太子に滅せられた物部守屋の従類の子孫だと伝えている】
【これらの家はふだんは寺に雇われているわけではないが、修正会の時は寺に来て牛王宝印を刷る】
●四天王寺における七度半の使いと公人について→
8.『四天王寺の鷹』
・P.31 【四天王寺には守屋に仕えた者たちで、守屋の敗死後、四天王寺の奴婢になった連中の末裔が、今なお四天王寺でいろいろな仕事に就いており、それらの人々は公人(くにん)と呼ばれています。その中の公人長者はとくに四天王寺の大祭の聖霊会には欠かせない役柄です。】という学僧の談話がある
・第Ⅳ章 永奴婢の末裔 →記述多数。うち、pp.295-297「公人の苗字と地名」
【四天王寺の奴婢は、奴隷として扱われたのではなく、かなり優遇されたものであると思うと、四天王寺の管長だった出口常順は述べている。】
・終章 聖霊会と公人長者
【夜明け頃になると、公人長者のところに四天王寺から「催促」と云って「今日は御苦労を願います」と頼みにくる。午前三時頃である。続いて七回くる。七度目の使いが見えてから、公人長者は家を出る、そして八度目の寺の使いと四天王寺の坂の下で会う。だから「七度半」ということになる。(中略)戦前ある座談会でこう語った公人長者、玉野永之介・・・】という、著者が玉野節雄(永之介の孫)に質問した際の記述がある。
●四天王寺における七度半の使いに公人が必要だったということについて→見出せず
●その他 参考資料
『国史大辞典』項目「物部守屋」→『四天王寺御手印縁起』、「七度半の使」、「公人(くにん)」
『日本史大事典』項目「物部守屋」
『日本国語大辞典』「七度半の使い」
『仏教芸術 56号』 特集四天王寺「四天王寺関係文献目録」 pp.131-141