レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2022/11/19
- 登録日時
- 2023/01/25 00:30
- 更新日時
- 2023/01/25 00:30
- 提供館
- 宮城県図書館 (2110032)
- 管理番号
- MYG-REF-220180
- 質問
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解決
2021/3/8河北新報朝刊の掲載記事に「仙台藩の米の江戸でのシェアは約一割だった。」とあるが根拠は何か。
「仙台市史」や「仙台藩農業史研究」には「江戸で消費される米の20-30パーセントを仙台米が占めていた」とある。新聞の記事は今まで調べた資料の内容と異なり疑問である。
- 回答
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資料1,資料2を案内した。
※【 】内は当館請求記号
下記資料は,依頼者提示の新聞記事と同様の内容であり,いずれも「菅野正道」氏の執筆記事である。
仙台米のシェア関連の記述は江戸の人口,江戸で消費される米の量,市場で取引される量,仙台藩から運ばれた米の量から算出されている。
資料1 菅野正道「宮城の米(地域のたから自慢の逸品;8)」『仙台商工会議所月報 : 飛翔』仙台商工会議所, 339号, 2014【PK670/セ】
p.15「ササニシキへの道」の項
「江戸時代,仙台藩領では新田開発が盛んに行われ,そこで生産された米が大量に江戸に運ばれました。その量は,年平均十五万石から二十万石(約三万トン)に達しました。江戸で一年間に消費される米の量は三百万石以上で,うち市場で取り引きされるのは半分程度と推定されます。したがって,江戸市場における仙台米のシェアは一割前後に及び,銘柄としては最大のシェアを誇ったのです(江戸市場の三分の一を占めたという説もありますが,これは過大評価です)。しかし,当時の仙台米は,品質面では決して高く評価されていたわけではなく,中等以下の安い米だったようです。(後略)」
資料2 菅野正道「米(みやぎの食材歴史紀行;7)」『Kappo』プレスアート, 102号, 2019【PK050/K】
pp.20-21「仙台藩の米」の項
「(前略)よく「江戸の米の三分の二が仙台藩の米だった」と言われる。これは,江戸の出来事を幕末にまとめた『武江年表』の「今年(寛永9年=1632年)より奥州仙台の米穀はじめて江戸に廻る。今に江戸三分の二は奥州米の由なり」との記述に基づいている。しかし,これはどう見ても誤りだ。(略)江戸の人口は百万人とされるが,女性や子供,高齢者などを勘案し,老若男女平均して年一石二斗の米を消費すると仮定すると,江戸の米需要は百二十万石。市場で取引されるのは約半分とみても,幕末に仙台藩が江戸に運んだ米十万石余は二割以下にしかならない。もう一度『武江年表』を見れば,江戸の三分の二の米は,「奥州米」となっている。そう,江戸の米市場の過半を占めたのは,今の東北地方から運ばれた米で,「仙台米」はその代表格,ということだった。(後略)」
また,下記の資料3,資料4も確認したが,「江戸での仙台藩の米のシェアは約1割」の根拠を示す記述は見当たらなかった。
資料3 岩本由輝著『本石米と仙台藩の経済』大崎八幡宮, 2009【K205/2009.X】
pp.42-50「5.仙台藩の江戸廻米量の推移」の項
資料4 宮城県史編纂委員会編『宮城県史 9』宮城県史刊行会, 1968【K201/ミ1/9】
pp.13-16「明治・大正期における宮城県農業の進展 村上啓一」-「第一章藩政時代の農業」-「第二節新田開発と御買米制」の項
pp.15-16「(前略)藩は集荷した米穀を需要が急激に増大しつつあった江戸に廻送し,その販売利益を藩庫に収めた。(略)かくて買米制度を通じて仙台藩領の余剰米は年々二〇万石近くも江戸に積み出され,時には三〇万石にも達し,江戸市中において消費される米穀の半ばをまかなうほどであった。(略)この制度の活用によって寛文から元禄・正徳にかけての約五〇年間(一六六一-一七一五)は仙台藩農村の繁栄時代を築いたのである。しかし元禄の頃から藩財政は次第に窮迫し,買米本金の準備も困難となって,買米仕法は中絶せざるを得なくなった。(後略)」
pp.729-730「仙台領の特産物 只野淳」-「仙台米」-「三,作立夫喰米法」の項
「(前略)仙台米は質が多少劣るとはいえ,江戸へは距離が近い関係から多量の出荷が可能であった。江戸一ヶ年消費量の過半ないしその三分の一は仙台米であったといわれ仙台米は天下第一と称されていた。年々二十万石に及ぶ米を江戸に運送し,これを相場によって市場に売り払って巨利を得,もって藩財政の赤字を補填(全部でなくとも)していたのである。(後)」
pp.740-741「八,江戸における糶米」の項
「仙台石巻より積み出された米は「深川御屋敷」に運搬される。(略)この米倉は二十万石余を収納出来るほどの広大なもので,ここに糶米と江戸詰仙台藩士に扶持する俸米とに区分される。(後略)」
pp.741-742「九,深川御蔵三銘位附」の項
「江戸市中で用いられた米の三分の一から三分の二までが仙台米で占められ,米相場に大きな影響を与えたという。」
- 回答プロセス
- 事前調査事項
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依頼者提示新聞記事
資料1 『河北新報』(マイクロフィルム)河北新報社【PN071.2/カ】
2021年3月8日付朝刊4面「考える 問う 論じる / 教えて! ピョン博士 / 2022年で宮城県誕生150年 / 1藩4県再編重ね成立」
「A 元仙台市史編さん室長で市在住の郷土史家菅野正道さんに詳しくお話を聞いてみました。(中略)」
「Q この150年で,大きく発展した宮城の産業って何かあるの?」
「A 代表的なのは稲作です。宮城産米が高く評価されるのは,実は昭和になってから。江戸時代から収量が多かったのは事実ですが,一部に残る「江戸の消費分の3分の2が仙台藩の米」という逸話は,実態と懸け離れた俗説。実際のシェアは約1割で,品質の評価は大半が「平均以下」でした。明治時代から長年にわたる品種改良,栽培技術の改善を続けたたまものなんです。戦後にササニシキが登場し,高評価は決定的となりました。」
資料2 野村岩夫著『仙臺藩農業史研究』無一文館書店, 1932【K612/ノ1】
pp.32-38「第五節 江戸に於ける仙臺米」の項
p.33「(前略)仙臺米の始めて江戸に輸送されたのは寛永九年であるが,其の後,仙臺米は江戸市中に於て盛んに消費せられ,各地から輸送される米穀の中でも仙臺米が最も多く,其の三分の二を占めて居ったと云はれ又後年に至っては諸國よりの廻米も多くなって当時仙臺米は其の三分の一を占めて居ったとも云はれて居る。(後略)」
資料3 仙台市史編さん委員会編『仙台市史 通史編4』仙台市, 2003【K225/セ1-13/4】
pp.288-304「二 江戸廻米の展開と買米制度」-「仙台米の江戸回漕」の項
p.289「(前略)江戸の人口を100万人とし,年間一人一石の消費量とすると,通常江戸で消費される米の二〇パーセントから三〇パーセント前後を仙台米が占めていたことになる。(後略)」
図表「188 仙台藩の江戸廻米量の変化」(1684年(貞享元)-1835年(天保6))掲載あり。
資料4 近世村落研究会編『仙台藩農政の研究』丸善, 1958【K612/キ1】
p.126に,廻米の種類について,仙台藩は江戸屋敷で自家消費する御用石,藩士の為登米,御買米の3種類があった旨記載あり。
- NDC
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- 農業史.事情 (612 9版)
- 参考資料
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- 仙台商工会議所. 仙台商工会議所月報. 仙台商工会議所, 【PK670/セ】:15
- プレスアート. Kappo Vol. 1 (2002.秋)-. プレスアート, 2002.8-【PK050/K】:20-21/28-29
- 宮城県史編纂委員会/編. 宮城県史 9. 宮城県史刊行会, 1968【K201/ミ1/カ9】:15
- 野村/岩夫∥著. 仙臺藩農業史研究. 無一文館書店, 1932.9【K612/ノ1/ウ】:32-38
- 仙台市史編さん委員会/編. 仙台市史 通史編4. 仙台市, 2003.2【K225/セ1-13/エ4】:288-304
- 近世村落研究会/編. 仙台藩農政の研究. 丸善, 1958【K612/キ1/ウ】:109,115,122
- 富田/広重∥編. 宮城県米穀商同業組合沿革史. 原田印刷所, 1941.2【K611/1941.2】:74-
- 農業農村情報問題研究会/企画. ササニシキ物語. 農業農村情報問題研究会, 1987【K616/サ1】:2-・14
- 仙台郷土研究会∥編. 仙台藩歴史事典. 仙台郷土研究会, 2012.1【K205/2012.1】:
- 地方史研究協議会/編. 日本産業史大系 第3. 東京大学出版会, 1960【602.1/二3/3】:30-42
- 和歌森太郎先生還暦記念論文集編集委員会/編. 近世封建支配と民衆社会. 弘文堂, 1975【210.5/キ2】:148-165
- 岩本/由輝∥著. 本石米と仙台藩の経済. 大崎八幡宮, 2009.10【K205/2009.X】:
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000327841