レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2009/06/10
- 登録日時
- 2012/04/29 02:00
- 更新日時
- 2012/09/11 13:52
- 管理番号
- 6000000581
- 質問
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解決
豊中市にあり、承久の乱の発火点となったという、椋橋庄(倉橋庄/くらはしのしょう)について書かれた資料はあるか。
- 回答
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『日本歴史地名大系28 大阪府の地名1』『新修豊中市史 第1巻 通史1』等に、椋橋庄と承久の乱の関わりについての記載がある。
- 回答プロセス
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『日本歴史地名大系28 大阪府の地名1』(平凡社)豊中市のp254に「椋橋庄(くらはしのしょう)」の項あり。倉橋とも書くとし、"摂津国の長江(ながえ)・倉橋の両庄の領家職は後鳥羽院の寵愛を受けた白拍子・亀菊に与えられていた。しかし両庄の地頭が領家をないがしろにしたため、後鳥羽院が地頭を改易するよう鎌倉幕府に伝えたものの、幕府はこの申し入れを拒否した"という記述が『承久記』『吾妻鏡』等にあることを述べ、椋橋庄が承久の乱の一因となった庄園であるとしている。
また『新修豊中市史 第1巻 通史1』(豊中市)p241に「承久の乱と豊中地域」という節がある。この節では鎌倉幕府の成立後の豊中市域周辺の動向や後鳥羽院政についてふれたあと、p246で「承久の乱の発火点-長江・椋橋庄-」の項を設けて後鳥羽上皇と鎌倉幕府の対立の背景を詳説し、さらに椋橋庄が当時の淀川・神崎川流域において重要な位置を占めていたことを示して、それゆえに当地の支配権が承久の乱の一因となったと分析している。
さらに『市史研究とよなか』第1号p56「椋橋庄と承久の乱」(小山靖憲)では、椋橋庄の領有関係や承久の乱前後の椋橋庄の状況を仔細に分析し、この地の地頭が当時の執権・北条義時であったという『大阪府史』の見解等を引用して、椋橋庄の当時の政治における位置づけを解説している。なおこれによると近世の庄本村(しょうもとむら)は現在の豊中市庄本町・二葉町・庄内宝町および庄内栄町・庄内幸町の南部にあたり、中世の椋橋庄に由来する地名で、椋橋庄の中心もこの付近にあったとのこと。また現在も椋橋神社は庄本町にある。
このほか、『わが町の歴史 豊中』(文一総合出版)p29「椋橋庄と承久の乱」、『資料集録 「聞き書き」とよなかの史跡めぐり』(瀧健三)p199「椋橋神社(椋橋総社)」、『文学にみる豊中の古迹』(鹿島友治)p15「椋橋庄(倉橋庄)と承久の変」、『歴史散歩シリーズ2 大阪の史跡を訪ねて 中世編』(№出版)p55「椋橋荘」、『尼崎市史 第1巻』(尼崎市役所)p427「承久の乱の発火点倉橋庄」、『伊丹市史 第1巻』(伊丹市)p473「承久の変のおこり」、『豊嶋文化1~5号』(豊中郷土文化研究会)第5号p18~20などにも、承久の乱と椋橋庄についての記載がある。
なお、2012年4月現在、豊中市のサイトの「とよなか百景」のひとつに「椋橋総社」http://www.city.toyonaka.osaka.jp/top/bousai/toshikeikan/hyakei/kanzakigawa/syomoto.html があり、境内の写真や神社の位置を見ることができる。
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210 9版)
- 参考資料
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- 『日本歴史地名大系』28‐[1] (平凡社)
- 『新修豊中市史』第一巻 豊中市史編さん委員会/編集(豊中市)
- 『市史研究とよなか』第1号 豊中市史編さん委員会/編集(豊中市)
- 『わが町の歴史 豊中』小林 茂/著(文一総合出版)
- 『とよなかの史跡巡り』瀧 健三/編集(瀧 健三)
- 『尼崎市史』第1巻 岡本 静心/[ほか]編集(尼崎市役所)
- 『伊丹市史』第1巻 伊丹市史編纂専門委員会/編(伊丹市)
- 『豊嶋文化第1号-第5号』豊中郷土文化研究会/編
- 『大阪の史跡を訪ねて中世編』大阪民主新報/編(ナンバー出版)
- キーワード
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- 豊中市
- 歴史
- 庄内(ショウナイ)
- 椋橋庄(クラハシノショウ)
- 倉橋庄(クラハシノショウ)
- 承久の乱
- 鎌倉
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 一般
- 登録番号
- 1000105442