レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2008年10月08日
- 登録日時
- 2011/10/12 15:02
- 更新日時
- 2011/12/27 12:28
- 管理番号
- 新県図-01185
- 質問
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解決
「弥彦街道」の名称およびルートについて調べている。
- 回答
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(1)名称
『越の山の辺の道』(藤田治雄/著 巻町教育委員会 2000)p37「右やひこ道」の項に、以下の記述があります。
「伏部(ふせべ)…村のはずれの所に、「右やひこ道」と刻まれた石の道標(みちしるべ)がある。[中略]この道標は、新潟より弥彦に行く道、すなわち、弥彦神社に参詣する人のために建てられたもので、この街道の北にある巻町松野尾にも、これがある。」
『岩室村の北国街道と周辺の名所旧跡』(岩室村文化財保護審議委員会/編・発行 2004)p2には次のように出ています。
「江戸時代には一般の人々は街道を色々な名称で呼んでいました。○○道、○○街道、○○往還、○○道(地名を入れます。例:弥彦道)などです。要は相手に何処へ行く道かが伝われば良かったと思われます。」
以上より「弥彦街道」は、正式な街道の名称ではなく、様々に呼ばれていた道の名称の一つと推測されます。
なお、この街道は、江戸時代の佐渡三道の一つ「会津街道」が幕府の名付けた正式名称だったようです。
『三国街道Ⅱ・北国街道Ⅲ』(新潟県教育委員会 1996)p13には次の記述があります。
「しかし、地元でこの道を会津街道とよぶことはない。[中略]赤塚地区に残る「赤塚村裁絵図」には、北陸道と記載されている。また、明治期の「新潟市大字関屋大字全図」では、北陸本道となっている。『新潟市史』には、これ以外にも北国街道・庄内道・奥州道・浜街道などの名称があったことが記されている。一方、西蒲地域では江戸期の古文書に北陸往還・北国往還・北陸道などの記述が見える。」
このほか北陸街道・北国浜街道とも呼ばれたようです。
(2)ルート
前出の『岩室村の北国街道と周辺の名所旧跡』は「北国街道」という名称を採用していますが、さらに「江戸時代の寛文(かんぶん)元年(1661)から明治6年(1873)まで」(p2)と時期を限定しています。
その理由を「近世になり、岩室村内の街道は大規模な新道の開発、それに伴うルートの付け替えが行なわれ」(p3)たため、としています。
これ以前の状況は、資料が乏しく明確ではないためと考えられます。新潟から弥彦への弥彦街道が、この区間の北国街道のこととすると、江戸期より前のルート確定は困難と思われます。
参考までに、以下の市町村史もご紹介します。
『新潟市史 通史編』1(新潟市 1995) p398~407「北国街道」
『巻町史 通史編』上巻(巻町 1994) p593~601「陸上交通」
『弥彦村誌』(弥彦村誌編纂委員会 1971) p46~60「北陸道の通過宿駅」ほか
- 回答プロセス
- 事前調査事項
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(1)名称については『新潟県史』などには出てこない。
(2)地元の観光協会に問い合わせたが「不明」とのこと。
(3)『良寛のふるさと』(新潟日報事業社出版部 1988)では、この名称が使用されている。
- NDC
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- 交通史.事情 (682 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 江戸時代の越後の街道
- 古代の道程
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 図書館
- 登録番号
- 1000092193