レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2023/02/24
- 登録日時
- 2023/03/09 00:31
- 更新日時
- 2023/03/09 00:31
- 管理番号
- 6001060195
- 質問
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解決
淀川三十石船はどのぐらいの大きさの船だったのか知りたい。
- 回答
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次の資料に記載があった。
■『畿内河川交通史研究』(日野照正/著 吉川弘文館 1986.10)
「第二編 各論 第四章 各種客船 第一節 三十石船の運航状況」に「過書船・伏見船の三十石船は、淀川船の代名詞のようになっているが、早登り三十石・早舟三十石・人乗三十石とも言われ、旅客運送が主で、一般の貨物運送船よりも快速であった。吃水の浅い三十石積の苫船で、(中略)その規模については、長さ一五間(約二七メートル一七センチ)幅二間余(約三メートル六五センチ)ともいわれるが、『京都役所方覚書』下によると、元禄ころは左のように材質・造船法の差異により一定しない。のちに、惣長五丈六尺(約一七メートル)胴敷幅八尺三寸(約二メートル五〇センチ)と規定されたようである。」として、『京都役所方覚書 下』の次の記載が引用されている。
「四十三 大坂より[より、は合略仮名]伏見過書船」とあり「船間尺 三拾石積」は「長サ 三丈七尺程より[より、は合略仮名]五丈程迄 幅 六尺より[より、は合略仮名]七尺程迄 深 弐尺内外」(p.229-230)
■『近世淀川水運史料集』(日野照正/編 同朋舎 1982.12)
「『京都役所方覚書 下』抜粋」に「四十三 大坂より[より、は合略仮名]伏見 過書船」がある。(p.871-876)
『畿内河川交通史研究』で引用されている箇所はp.872にある。
■『和船 2 ものと人間の文化史』(石井謙治/著 法政大学出版局 1995.7)
「船の名前と船型 川船 4 淀川の三十石船」に「三十石船といえば、海船・川船を問わず米三十石相当の積載能力を持つ船のことである。(中略)歴史の古い過書船の三十石船を古船といい、新しい伏見船の三十石船を新船と呼ぶようになったのである。それだけに、一口に三十石船といっても、過書船所属と伏見船所属とでは同じ艜ながら多少の違いはあったのだろうが、その辺のところは技術史料不足で何ともいえない。ただ寸法的にはつぎのように若干の相違がある。
過書船 全長四十九尺、肩幅六尺四寸、深さ一尺七寸
伏見船 全長四十三尺五寸、肩幅七尺二寸三分、深さ一尺七寸四分
ただし過書船は小三つまり小三十石船の場合である。過書船の三十石船には、このほかに本三つまり元三十石船と、間三つまり間三十石船とがあって紛らわしいが、本三は全長五十六尺、肩幅九尺七寸、深さ二尺とかなり大きく、間三はこれと小三の中間という意味での呼称だけに、全長五十尺、肩幅八尺三寸、深さ一尺九寸と中間的な寸法になっていた。」(p.201-202)
■『船 ものと人間の文化史』(須藤利一/編 法政大学出版局 1979)
「13 川と川舟の讃頌 ー芦の花咲く大淀の三十石舟と、京の高瀬舟―」の「三十石舟」に「三十石舟という名は、積石数が三十石あったところから、そう呼ばれたのであって、俗に『三十石』といわれた。川舟であるから、船底が平らで、吃水(船足)の浅い、長さ一五メートル、幅一・九メートルあまり、深さ〇・五五メートル、客は二八人定員、船頭四人が定法であったが、仕切と称して、数人分の賃金を支払えば、数人分の座席を占めることができ、簡単な苫を葺いた乗合舟である。」(p.304)
■『江戸時代図誌 3 大坂』(筑摩書房 1976)
「三十石船と“くらわんか船”」(p.32-33)に「三十石船は長さ約一七メートル、胴幅約二・五メートル、船頭五、六人で乗客定員は三〇名。」とある。(p.32)
■『淀川と物流:江戸時代』(田中喜佐雄/著 田中喜佐雄 1997)
「三十石船」に「長さ五丈六尺(十七m)、幅八尺三寸(二・五m)余りの小船で船頭は四人、船客の定員は二十八人であった。」(p.66)
■『大阪伝承地誌集成』(三善貞司/編著 清文堂出版 2008.5)
「北区(大阪市)」の「淀川三十石船舟唄碑」(p.34)
「三十石船は江戸時代、京・伏見と大坂・八軒家間を往復し、人や荷を運んだ。幅二・五メートル、長一七メートルの木造船。米を三〇石積めたので、この名がつく。最盛時は一日に三百隻が往来し」とある。
■『北区史』(大阪都市協会/編集 北区制一〇〇周年記念事業実行委員会 1980)
「1 江戸時代までの大阪 三 水運と商業の発展 水運と天満青物市場 過書船、三十石船」(p.47-48)
「三十石船は、喫水の浅い貨客船で、長さ約二十七メートル、幅約三・六メートル、二十八人乗り、船頭四人というきまりがあった。伏見・豊後橋(観月橋)大阪・八軒屋(天満橋下流)の間の四十五キロメートルを、上りは櫓のほかに途中九か所で岸から綱を引いて一日がかり、下りはもっぱら櫓を使って半日で着いた。」(p.48)
■『高槻市史 第2巻 本編』(高槻市史編さん委員会/編集 高槻市役所 1984)
「第三章 街道と淀川 第五節 三十石船とくらわんか船 三十石船」(p.262-266)
「一般に淀川三十石船といわれているのは、『早登り三十石』『人乗三十石』などといわれる三〇石積の吃水の浅い苫船で、旅客運送を主とした。淀川三十石船は、伏見から大坂八軒家までを一日二回往復し、上りは昼船一日、夜船一晩、下りはその半分で航行した。上りは水勢いの強い個所を沿岸に綱引道をつけて曳行したので、二倍の時間がかかった。曳行は九カ所で、主に淀川の右岸であった。上りの水夫の曳行は激しい労働であったばかりか、夏は蚊などの虫、冬は雪霜に責められ、夜船はことのほかの労苦であったという。船は全長一五間(約二七メートル)、巾二間(約三・六メートル)。水夫(加子)は四人で、定員二八人である。」(p.262-263)
■『北前船が運んだ民謡文化』(三隅治雄/著 第三文明社 2021.8)
「第5章 広島県~大阪府 編 <尾道~大坂> 大坂―大阪府大阪市 北前船歌詞集―大坂」の「淀川三十石船舟唄」の「ひとくちメモ」に次の記載がある。
「江戸時代、宇治川・淀川の水路を利用して、京都南部の伏見から大坂中央部天満橋南詰の八軒屋までの約四十五キロメートルの区間を往来する客船があった。三十石の米を積む能力のある全長十メートル余、幅四メートル余の六反帆船である。」(p.250)
[事例作成日:2023年2月22日]
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 各種の船舶.艦艇 (556 10版)
- 参考資料
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- 畿内河川交通史研究 日野/照正∥著 吉川弘文館 1986.10 (229-230)
- 近世淀川水運史料集 日野/照正∥編 同朋舎 1982.12 (872)
- 和船 2 石井/謙治∥著 法政大学出版局 1995.7 (201-202)
- 船 須藤/利一∥編 法政大学出版局 1979 (304)
- 江戸時代図誌 3 筑摩書房 1976 (32)
- 淀川と物流 田中/喜佐雄∥著 田中喜佐雄 1997 (66)
- 大阪伝承地誌集成 三善/貞司∥編著 清文堂出版 2008.5 (34)
- 北区史 大阪都市協会∥編集 北区制一〇〇周年記念事業実行委員会 1980 (48)
- 高槻市史 第2巻 高槻市史編さん委員会∥編集 高槻市役所 1984 (262-263)
- 北前船が運んだ民謡文化 三隅/治雄‖著 第三文明社 2021.8 (250)
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 大阪
- 質問者区分
- 業務
- 登録番号
- 1000330034