レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 20211023
- 登録日時
- 2021/10/24 17:11
- 更新日時
- 2022/12/15 14:39
- 管理番号
- 塩尻571
- 質問
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解決
江戸末期~明治にかけて、日本海側のどこからどのくらい塩尻に塩が運ばれてきたか知りたい。
- 回答
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【資料1】に幕末の信濃への塩の移入量(千国街道経由)が示されている。
【資料2】、【資料4】に長野県への入荷物統計がある。
これらによると安政年間の長野県への塩の移入量は約7700駄程と思われる。
上記から塩尻に運ばれた塩は同程度と類推されるとしてこれらの資料を紹介した。
- 回答プロセス
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レファ協に登録されている事例から類似のものを検索し参考にした。
塩の道のキーワードでヒットした本や地域資料の書架でブラウジングしたものの中から以下の記述が見つかった。
【資料1】『塩尻市誌 第2巻、歴史』
P775に塩の移入経路の図がある。これによると信濃に入ってくる塩は太平洋岸からの「南塩」、日本海岸からの「北塩」と呼ばれるものがあった。移入経路の説明として、「北塩は千国街道と北国街道からのものであるが、塩尻市域に運ばれたのは主に千国街道からのもの」という記述がある。ただし「南塩」の禁止は1777年には解かれたとある。北塩は千国街道から塩尻市域に運ばれ、幕末安政五年12月から翌六年11月までの例を見ると、越後国山口で7676駄(1駄=160kg)余り、同国虫川の関所経由で354駄余りの塩荷が信濃に入っていた旨の記述がある。
p774には「宝暦13年 松本街中馬往来に持つ種類数量」の表があり、辛塩の移入は200(駄数、1駄=160kg)とあるが、松本までであることと、江戸末期ではなく中期(1763年)となる。
【資料2】『大町市の歴史』
P101 山口の関 信州入荷物統計の図(安政5年12月~同6年11月)があり、1ヶ月ごとの塩の入荷量が示されている。
【資料3】『千国街道からみた日本の古代』
P87 「ボッカと牛方による輸送」の項に安政年間(1854~1859)の塩の輸送量として「塩、八千五十九駄」とある。
【資料4】『「塩の道(千国街道)」に歴史をひろう』
P52 「山口・虫川両関所荷物(信州入)集計表」の図があり、安政5年12月から安政6年1月に山口関、虫川関それぞれから信州に出荷された塩の量が示されている。(図の注に「この表は、『長野県史』中信地方五巻(三)に掲載の糸魚川市「小林昭氏文書」により筆者が積算したものである」とあり。)
- 事前調査事項
- NDC
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- 中部地方 (215 9版)
- 交通史.事情 (682 9版)
- 参考資料
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【資料1】塩尻市誌編纂委員会 編 , 塩尻市. 塩尻市誌 第2巻(歴史). 塩尻市, 1995.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002404071-00 -
【資料2】篠崎健一郎監修 , 篠崎, 健一郎. 大町市の歴史 : ふるさと発見. 一草舎出版, 2004.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000096-I009548508-00 , ISBN 4902842025 -
【資料3】郷津弘文著 , 郷津, 弘文. 千国街道からみた日本の古代 : 塩の道・麻の道・石の道. 栂池高原ホテル出版部, 1986.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000096-I001099442-00 -
【資料4】大日方健著 , 大日方, 健. 「塩の道 (千国街道) 」に歴史をひろう. ほおずき書籍, 1994.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000096-I010013452-00 , ISBN 4893411888
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【資料1】塩尻市誌編纂委員会 編 , 塩尻市. 塩尻市誌 第2巻(歴史). 塩尻市, 1995.
- キーワード
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- 塩
- 塩尻
- 塩の道
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000306479