レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2021年1月12日
- 登録日時
- 2021/02/12 12:24
- 更新日時
- 2021/03/25 14:33
- 管理番号
- 中央-1-0021467
- 質問
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解決
昭和40~50年代に、華道教授で収入を得る女性は増加したのか。どの階層の女性が華道教授を仕事としたのか。特に小原流について知りたい。
- 回答
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華道教授で収入を得る女性の増加について、はっきりと分かる資料は見つからなかった。
参考までに、華道に携わった女性の職業などについて書かれている資料を紹介した。
(1)『日本いけばな文化史 4』工藤昌伸/著 同朋舎出版 1994年
p131~138「流派の近代化と全国花道団体の成立」
p132「急成長する流派」の章に、戦後のいけばな人口の増加や教授法の近代化などについて書かれている。
「(略)戦前において稽古ごととしていけばなを習っていたのは主に有産階級の家庭の婦女子たちであり、専門の師範になろうとする人はきわめて少なかった。(略)昭和三十年代からのいけばな人口の増加は、自立した経済力をもつようになった職業婦人たち、現代でいうOLたちの参加によるものであった」
(2)『日本いけばな文化史 5』工藤昌伸/著 同朋舎出版 1995年
p105~116「流派共同体と家元制度」
p108「いけばな人口の膨張」の章に、いけばなと女性の関わりなどについて書かれている。
「戦後の解放された社会状況と経済復興の中で、戦前には参加することのできなかった広範な層の自立した職業婦人たちがいけばなを学びはじめた。(略)戦前にもまして多数の女性入門者たちを集めた流派は、一九五〇年代に急激に増えた入門者に対して、流派のいけばなを教える先生・師範たちの速成をしなければならなくなる。(略)やがて将来は師範としていけばなを教えようと思う女性たちも次第に増えてきたようだ。事実、戦後にいけばなに参加した女性、例えば、現在でいうOLであるならば、退職後に自立していけばなの師範として生活することはあるいは女性の職業としては憧れであったかもしれない。(略)OLとして職業のかたわらで教えることもでき、やがて師範として専業に教場をもてる可能性があるとすれば、彼女たちの技芸修得の選択肢の一つにいけばなを選んだことはまさに当時の社会状況にふさわしいものであったろう」
また、p109「流派の巨大化」の章では、師範免状の発行数などについて書かれている。
「(略)一九九〇年近くのことだが、文化庁の調査があり、池坊、草月、小原の三流派の師範の数といけばなを習っている人々の数を推定できないかとの問い合わせがあった。師範の数といっても、流派が師範免状を発行した総数は、必ずしも実際にいけばなを教えている数とは限らず、また師範の中には教えている弟子数に大きな差があるから明確な資料はないはずのものである」と書かれており、弟子数から専業の師範を推定した数として、「その数を池坊三万から五万人、小原流と草月流を一万五千から二万人と推定された」とある。
p110には「戦前には考えられなかった多数の女性たちの参加によって、いけばなの流派は歴史的にみてもかつてないほど組織を膨張させた」と書かれており、「蒼風が率いる草月流は、新しい造形的な創作活動によってマス・メディアを通じて大都市の若い女性たちに支持者を広げ、これに対抗した豊雲の小原流は、明治以来の近代いけばな・盛花によって培われた全国の支部組織によって流派の拡大を図った」との記述がある。
(3)『いけばなにみる日本文化 明かされた花の歴史』鈴木榮子/著 思文閣出版 2011年
p263~291「第七章 戦後の花道界」
p281に「昭和三十年代は敗戦の跡も落ち着きをみせ、高度経済成長の始まる頃である。女性のライフスタイルも変化していた。いけばなを、女性にとっての単なる稽古事にとどめず、職業と考える傾向が生まれた。(略)戦後のいけばな人口の増加は、いけばなを職業にする婦人を、多数輩出する可能性を含んでいた」と書かれている。また、p282では、小原豊雲の言葉を紹介した上で、その考察として「(略)教授者層には、いけばなを職業とする道をつけようと考えていたことが読みとれる。作家を目指す女性も出てこよう。女性の嗜みごととして普及するいけばなを職業のひとつにしようとする試みは、当時の社会傾向に即した考え方であった」と書かれている。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 花道[華道] (793 10版)
- 参考資料
- キーワード
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- いけなば
- 華道教授
- 女性
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000293768