次の資料を紹介した。
・『戸隠の忍者』 清水乕三著 銀河書房 1982 【N789/2】
p.20-29「(一)信濃における忍法の歴史」に次の忍者の記載が確認できる。
木曽義仲の残党、仁科大助(戸隠大助ともいう)が伊賀に逃れ、伊賀流忍術に工夫を加えて戸隠流忍
術をあみだしたという記載、武田信玄が瀬沢合戦に備えて信濃から召し抱えた忍者として、手裏剣の名
人突破次郎坊、忍び早駆けの熊若という記載、南北朝時代に新田義貞に仕えた信濃忍者として畑六郎左
エ衛門の記載、真田氏に仕えた忍者として「出浦対馬」「横谷左近」「割田下総」の記載、甲賀望月の
忍者で武田氏・真田氏のために働いた女忍者「禰津流くの一」の集団の記載、松本藩戸田家の忍者とし
て「芥川九郎右エ門」の記載、「(三)忍術の流派」p.32長野県の流派として甲陽流・戸隠流・青木
流・伊藤流・芥川流の掲載あり。
・『根津・禰津家 家歴と系譜』 根津清[著] 根津清 2001 【N288/180】
p.186-187に真田家と忍者について掲載があり、p.186には忍者として「角田新右衛門」、p.187に
は「根津同心劍持喜右衛門、佐次衛門」という記載が、また同頁には信玄方で修験者の総元締めを務め
忍者の養成をしたとして甲州の「原仁兵衛(来福寺左京)」という名前の掲載がある。
・田中誠三郎著「“真田忍者”漫筆;影の歴史のおもしろさ」 『長野』第123号 1985.7 p.31-35
真田家の忍者について「出浦対馬」「祢津神平」「横谷左近」「来復時左京」「女忍びの千代」等の
名前が散見される。
上記に記載のあった「出浦対馬」「横谷左近」「割田下総」「禰津流くの一」「芥川九郎右エ門」「角田新右衛門」「根津同心劍持喜右衛門、佐次衛門」「原仁兵衛(来福寺左京)」「祢津神平」「来復時左京」「女忍びの千代」について、調査した結果は次のとおり。なお分限帳に掲載されている該当の姓の者についても記載したが、忍者であるかは不明。
・『真田一族と家臣団』 田中誠三郎著 信濃路 1979 【N288/88】
◉「上級武士の系譜」p.117-118「出浦対馬守盛清の子孫」の項p.117には「真田家戦功録」からの引
用で「出浦対馬守甲州信玄へ給仕せり。その頃スッパ(註・忍者のこと)を預かり、他国へスッパを
入れけるに、そのスッパより先に城内へ忍び入り(後略)」と掲載あり。
◉「真田氏初期重臣の家歴」p.89に出浦対馬の一項がある。
◉「寛永十年分限帳(真田信之時代)」p.172には「六百石 出浦織部」、「七百石 出浦半平」「三
百石 出浦半之亟」という記載がある。
◉「上級武士の系譜」p.107-108の中で「禰津(祢津)」について紹介されているが特に忍者との関
連については確認できず。p.196に祢津姓の5人の名前があり石高が記載されている。
◉「寛永十年分限帳(真田信之時代)」p.172には「七百石 祢津三十郎」、「五百石 祢津八郎左衛
門」という記載がある。
「横谷」および「割田」「角田」「劍持」という姓は確認できず。
・『真田家家中明細書』 国立史料館編 東京大学出版会 1986 (史料館叢書) 【N280/138】
p.27-29「出浦」姓の藩士6名の記載あり。
p.240-242「祢津」姓の藩士12名の記載あり。
「横谷」および「割田」「角田」「劍持」という姓は確認できず。
・『校注本藩名士小伝』 [河原綱徳編輯] 高志書院 2017 【281.52/カツ】
p.22-24「出浦対馬守」の項 p.103-106前項の注釈
p.29-30「来福寺」の項p.114-115前項の注釈
p.63-69「祢津」姓の7名掲載あり。p.146-152前項の注釈
・『長野県史 近世史料編 第7巻(1)』 長野県編 長野県史刊行会 1981 【N209/11/7-1】
「松代領」のうち、「領知」の項
p.15-40「一六 寛文元年 真田幸道家中分限帳」
「高合百石 出浦惣右衛門」(p.30),「高合五百石 出浦五左衛門」(p.35),「高八百石 祢津喜平
次」(p.18),「高合六百石 祢津八郎右衛門」(p.30),「高合弐百石 祢津甚五兵衛」(p.33),「高合
弐百石 祢津権太夫」(p.33)
・『長野県史 近世史料編 第5巻(1) 中信地方』 長野県編 長野県史刊行会 1973 【N209/11/5-1】
「松本領」のうち、「領知」の項
p.82-102「五〇 享保十年 水野忠恒家中分限帳」
「芥川」姓の確認できず。
p.120-124「六五 享保十一年 戸田光慈御抱諸士知行附」
「芥川」姓の確認できず。
p.153-173「七七 明和年間 戸田光和家中分限帳」
「芥川」姓の確認できず。
・『忍者の里を旅する』 産業編集センター 2016 【N789/19】
p.112-114「馬場信春と歩き巫女「くノ一」」の項で、信玄が川中島の戦いで戦死した望月城主の未
亡人・望月千代女(もちづきちよめ)を「甲斐信濃二国巫女女頭領」に任じ、信濃小県郡禰津村(東
御市)に女間諜「くノ一」の養成機関を設け、ここで養成されたくノ一たちが歩き巫女となり情報収集
をしたということが書かれています。
・『祢津の里ノノウの実像;信濃の歩き巫女』 石川好一著 グリーン美術出版 2012 【163.9/イヨ】
p.26-29祢津のノノウたちについて、武田、上杉、真田氏のもとで情報収集を行ったとも推察される
が、旧祢津村に残されているノノウ関係の文書のほとんどは江戸時代後期のものでそれらの文書の中
にはそのような活動をしていた形跡を示すものは現在のところ見出すことができないということが書
かれています。
<具体的な名前は出てこないが忍者に関連すると思われる資料>
・『南牧村誌』 南牧村誌編纂委員会編 南牧村誌編纂委員会 1986 【N223/64】
「一三 参考・望月氏、滋賀県甲賀に移り甲賀忍者となる」p.516-519に、滋賀県甲賀郡江南町竜法
師部落には甲賀忍者望月氏の屋敷がある。この望月氏は北佐久郡望月町望月の出身であるのはなぜか、
NHKテレビ昭和58年8月31日の「歴史への招待」を引用して説明している。
・『北御牧村誌 歴史編1』 北御牧村誌編纂委員会編 北御牧村誌刊行会 1997 【N222/122/1-1】
「六 甲賀望月氏のおこり」p.216-218に、滋賀県甲賀郡の甲賀町や甲南町などの忍者の里の望月姓
の人びとの中には系図を持つ家が何軒かあるが、そのなかに信濃望月氏と同様で『群書類聚』系図部
に収載されている「信州滋野氏三家系図」とほとんど同じものがあるということや、諏訪にも関連す
る「甲賀三郎伝説」について記載がある。
・『望月町誌 第3巻 歴史編1 原始・古代・中世編』
望月町誌編纂委員会編 望月町誌刊行会 1994 【N222/109/3】
p.567-579 第6章第1節「甲賀の望月氏」に上記の資料と同様の内容でより詳しく記載があり、系
図も掲載されている。
・『日本百霊山;伝承と神話でたどる日本人の心の山』 とよだ時著 山と溪谷社 2016【163.1/トト】
p.88-90「天狗の麦飯と忍者の秘法 30 飯縄山」戦国時代には「飯縄の法」を使う忍者が暗躍した
という記載等あり。
・『新編信濃史料叢書 第15巻』 信濃史料刊行会編 信濃史料刊行会 1977 【N208/43/15】
「一徳斎殿御事績稿下之巻」p.84に「信玄ハ敵陣へ忍を遣し見せ給ふニ、」と記載あり。
・『戸隠の民具;写真集』 清永安雄撮影 産業編集センター 2018 【383.9/キヤ】
民具の写真につけられた番号113-118に戸隠流の武具の紹介あり。
上記以外の調査済み資料(すでに紹介した資料と内容が重複していると思われるもの、および問い合わせの忍者について特に関連がないと思われるもの)
・高橋圭一著「真田幸村と忍者-『本朝盛衰記』を中心に-」
『松代』第30号 (松代藩文化施設管理事務所) 2017.03
・小林一郎著 「『真田丸』に登場する真田家家臣たちの略伝-『本藩名士小伝』より(一)-」
『長野』第305号(長野郷土史研究会) 2016.12
・『秘伝戸隠流忍法;戸隠忍法流・生きる知恵』
初見良昭著 滋慶出版/土屋書店 2014 (初見良昭指南書) 【N789/16】
以下の資料は目次から関連事項を探すことが困難で、内容を詳しく確認できなかった。
・『甲賀忍者軍団と真田幸村の原像;甲賀三郎物語を歩く』 福田晃編著 三弥井書店 2016 【N388/322】
・『真田と「忍者(しのび)」』 加来耕三[著] 講談社 2016 【N288/329】