レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2022年07月16日
- 登録日時
- 2023/01/14 13:23
- 更新日時
- 2023/01/14 13:23
- 管理番号
- 福郷-177
- 質問
-
解決
森鷗外の短編「独身」に、常盤橋(現在の北九州市小倉北区)の広告柱に関する記述がある。現在の広告柱(塔)は平成15年に再建されたものだが、当時の広告塔を作ったのは誰か。
- 回答
-
◆参考資料1『広告塔の謎 小倉北区の常盤橋東袂』山神明日香(私家版 2009.5)
p.79-86に「広告塔の建立者」の項目あり。
p.81に「初代の広告塔の建立者は、門司新報によると小倉の某氏である。後にも先にもこの記事以外に鴎外も何も言っていない上に、町の人々も書き残してはいない人物である」とある。また、著者は広告塔の建立者を「その頃小倉の町で一番の富豪とされた」藤井昇吉ではないかと考えており、p.85に「藤井は常盤橋の東側、舟頭町を所有していたことや、橋の横にも家を持っていたことを思うと、広告塔を建てる位は簡単なことであった。(中略)橋の東側に広がる紅灯の町を支配していた男は(中略)陰の世界に生きたとされる。小倉の中で大きな存在であったにもかかわらず、人々に無視され記録にも残されることの少なかった人間である。藤井ならば広告塔の維持管理できる距離にあって、それからの収入をも得ていたのかもしれない」とある。
◇参考URL1 「常盤橋の広告塔」(「北九州市 時と風の博物館」ホームページ内「常設展示室」)
(https://www.kitakyushu-museum.jp/resources/1838 最終確認2022.7.16)
平成15年に再建された広告塔の写真と明治23年頃に建てられた広告塔の写真が確認できる。
- 回答プロセス
-
キーワード「小倉 広告柱」「常盤橋」で自館検索
なお、以下の資料も確認したが明治期の常盤橋の広告柱(塔)に関する記述は見あたらなかった。
・河野正彦「長さは百歩か二百歩か 常盤橋界隈歴史余話」(『西日本文化』279号p.25-26 1992.3)
・浅田武彦「常盤橋(木の橋)の誕生あれこれ」(『北九州市の文化財を守る会会報』No.126 p.8 2009.3)
・浅田武彦「常盤橋のあれこれ(その2)」(『北九州市の文化財を守る会会報』No.127 p.4 2009.6)
・「常盤橋“木の橋”(小倉北)」(『ひろば北九州』No.154 p.1 1999.4)
- 事前調査事項
-
鷗外漁史の小倉観-広告塔と伝便‐」田上耕作(『福岡』No.59 1935.12)
p.16「常盤橋の袂に円柱が立って居る」とある。
- NDC
-
- 広告.宣伝 (674 10版)
- 参考資料
-
- 1 広告塔の謎 山神 明日香/著 [山神明日香] 2009.5 K674//コ (p.79-86「広告塔の建立者」)
- 「北九州市 時と風の博物館」ホームページ https://www.kitakyushu-museum.jp/resources/1838 (「常設展示室」内、「常盤橋の広告塔」(最終確認2022年7月16日))
- キーワード
-
- 常盤橋 広告柱 広告塔 北九州市 小倉
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000327364