レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2020年02月17日
- 登録日時
- 2022/01/21 14:11
- 更新日時
- 2024/01/15 11:04
- 管理番号
- 横浜市中央2644
- 質問
-
解決
浅野学園・銅像山の浅野総一郎銅像について、創設、戦時における回収、再建の経緯について知りたい。
- 回答
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1 浅野学園・銅像山の浅野総一郎銅像の経緯全般について
(1)『浅野学園六十年史』 浅野学園/編 浅野学園 1980.10
p.28-「沿革史」とp.41-「年譜」の中で銅像について書かれています。
p.30 「大正十三年 五月十八日、創立者・浅野総一郎の寿像除幕式挙行。
作者は高村光太郎の高弟・本山白雲。」
p.43 「大正十三年(77歳) 五月、約二十五万人の寄付金により、浅野綜合中学校
校庭の一角に、身長一丈六尺(四・八メートル)・台座二十尺(六メートル)
の寿像成り、除幕式を挙行する。」
p.35 「昭和十八年 五月二日、浅野総一郎翁寿像が供出される。」
p.37 「昭和三十三年十一月九日、浅野総一郎翁の銅像再建される。
原型どおりに慶寺丹長が制作。」
なお、同じ内容が七十年史、八十年史にも書かれています。
(2)『浅野学園百年史』 出版文化社/編集・制作 浅野学園 2020.9
p.69 ・浅野翁の銅像の創立経緯が、銅像写真、除幕式写真入りで書かれています。
・除幕式は5月に行われ、以来この丘は「銅像山」と呼ばれるようになった
ことが書かれています。
p.82 軍需資材の確保を目的に、国が官民の所有する金属類の回収を進めた
ため、まず創立者である浅野総一郎翁の銅像が国に供出されたことが書かれて
います。
p.98-99 「コラム 銅像の再建と奨学金制度の開始」
・浅野翁の全身像は1958(昭和33)年に横浜開港100周年を期して再建された
こと
・鋳造師の慶寺丹頂が復元し、銅像山に残存していた台座の上に建てられたこと
・浅野学園、会社関係者、官公庁および一般市民の一口100円の寄付による
ものだったこと
が書かれています。
p.10-11 「銅像山の整備と浅野総一郎翁銅像修復」
2020年4月に100周年記念事業の一つとして、銅像が修復されたことが書かれて
います。
p.184-197 「浅野学園沿革史」に銅像の創建、回収、再建について年月日入りで
記載されています。
(3)『鶴見区史』 鶴見区史編集委員会/編 鶴見区史刊行委員会 1982.3
p.505 浅野総一郎像
大正13(1924)年5月18日、喜寿に現在の場所に建てられたものであること、
1人1口20銭、25人の寄附によったものといわれること、
昭和18(1943)年5月2日、「金属の献納運動」によって供出され、昭和33(1958)
年11月3日に「再建期会」の手によって再建されたことが書かれています。
(4)『ふるさとのこころ 銅像』 稲本博/企画・編集 おりじん書房 1991.3
p.157 浅野総一郎像 写真が掲載されています。
p.265 「浅野総一郎」に以下のような内容が書かれていますが、出典等の記載は
ありません。
・渋沢栄一像再建に刺激されて再建
・最初に建てられた経緯
・この地に建てられた理由
・昭和18(1943)年に戦争激化に伴い供出
・昭和33(1958)年に旧像と寸分も違わぬものが復元された
・親交のあった徳富猪一郎の頒徳文が刻まれている
2 創設の経緯
個別の経緯について、1に含まれない資料をご紹介いたします。
(1)『浅野総一郎』 浅野総一郎,浅野良三/共著 浅野文庫 1937.6
浅野総一郎夫妻の金婚を祝い大正11(1922)年に出版し、
その後、浅野総一郎の喜寿を祝い改訂版が大正13(1924)年に出版されました。
「大正13年5月18日 浅野公園計画地ニ建設セラレタル総一郎寿像除幕
式当日ノ盛況」として写真が掲載されています。
「鱗蒐録」p.98に「52 浅野総一郎寿像建設会」があり、そこに
寄付により建てられたこと、寄付の仕組み、夫妻の金婚である大正11(1922)年
に計画があり、大正13(1924)年の喜寿に除幕式が挙げられたことが書かれています。
こちらの資料は当館のデジタルアーカイブ「都市横浜の記憶」でご覧いただけます。
横浜市立図書館デジタルアーカイブ「都市横浜の記憶」
https://archive.lib.city.yokohama.lg.jp/museweb/detail?cls=collect_01&pkey=00001932
(2)『横浜貿易新報 大正13年5月』 横浜貿易新報社/〔編〕 横浜貿易新報社
1924.5
大正13(1924)年5月19日3面に除幕式の記事があります。
当日の様子のほか、200有余の発起人と約300人の賛助により建てられたことなど
が書かれています。
3 戦時における回収の経緯
『読売新聞』の記事を見出し・キーワードから検索できるデータベース
「ヨミダス歴史館」で次の2件の記事が見つかりました。
(1)「巨弾に代われ銅像」
(「読売新聞」 1943年4月9日 神奈川)
新設の県金属回収課では本年度の実施要項を関係方面に徹底させるため、十二日に
協議会を開くが、特に銅像の回収に重点を置き未回収の銅像については関係者の
協力を得て供出を求め“銅像応召’の実をあげること、既に供出決定の応召銅像が
書かれています。浅野中学校校庭の浅野総一郎氏の銅像もその一つとして書かれて
います。
(2)「浅野翁銅像 赤だすきかけて征く」
(「読売新聞」 1943年5月4日 神奈川)
神奈川区子安の浅野公園高台の浅野総一郎翁の銅像が3日応召したこと、これに
先立ち2日に二代目総一郎氏、近親者、浅中生など450名が参列して行われた
ことなどが写真入りで書かれています。
4 再建の経緯
(1)『横浜近代史総合年表』 松信太助/編 有隣堂 1989.12
以下の記載がありました。
p.685 1958年11月9日 浅野総一郎の銅像、神奈川区子安台の浅野学園に
15年ぶり再現、除幕式
この記事の出典は「神奈川新聞」となっており、当館で所蔵している神奈川新聞の
マイクロフィルム及び神奈川新聞WEBマイクロフィルムを確認したところ、当日、
前後の日の記事(翌日は総合版)に該当の記事は確認できませんでした。
(2)「新聞配達少年ら表彰 勤労感謝の日 横浜で三つのつどい」
(「読売新聞」 1958年11月24日 神奈川)
「ヨミダス歴史館」で検索し、こちらの記事が見つかりました。
11月23日に浅野学園で行なわれた故浅野総一郎翁像の再建除幕式の様子についても
書かれています。
(3)「浅野総一郎翁の銅像除幕式 浅野学園で」
(「神奈川新聞」 1958年11月24日 p.5)
銅像再建期成会が1069万円の寄付を集めたこと、高さは4.94メートル、
重さ2.2トンの大ブロンズ像で戦前と同じ大きさであること、浅野ドッグに
残されていた五分の一の原形をもとに慶寺丹長が製作したことなどが写真入りで
書かれています。
(4)絵葉書「浅野総一郎翁銅像再建期成会 頌徳文と再建のことば」
当館のデジタルアーカイブにて、碑文を読むことができます。
大正13年と書かれた頌徳文と「再建にあたることば」が書かれています。
「浅野総一郎翁銅像再建期成会」で検索していただくと、こちらを含む
4枚の絵葉書(写真)がご覧いただけます。
横浜市立図書館デジタルアーカイブ「都市横浜の記憶」
https://archive.lib.city.yokohama.lg.jp/museweb/
WEBサイトの最終確認日は2023年12月25日。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 金属彫刻.鋳造 (715 8版)
- 幼児.初等.中等教育 (376 8版)
- 個人伝記 (289 8版)
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土 人物
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000311010