①昭和18年刊『岡山縣の種用馬鈴薯』の緒言には、「本縣にては馬鈴薯を春及秋作となし、秋作は之を翌年の種薯としての栽培漸く旺んで其の生産物は今や縣内はもとより、縣外に移出し其の聲價は大きいものがある」として「岡山縣に於ける馬鈴薯栽培の變遷と現況」をまとめている。岡山縣で栽培されている品種としては「備前薄紅」、「備前白」、「備前赤」、「エゾニシキ」などの紹介がある。
②昭和23年刊『岡山県に於ける秋作馬鈴薯採種栽培』の序文では、「本縣邑久郡地方は秋作により優良なる種薯生産をなし県内外に出荷するに至る」と述べられている。
③昭和23年刊『春馬鈴薯の作り方』の「はしがき」には、「本縣の邑久郡沿岸地域で秋作の馬鈴薯採種栽培を行い、生産した薯は之を翌年の春作用種に充てゝいる。その價値は高く、場合によっては北海道産のものに勝れている。それは昭和十八年關東、東北地區で多収穫競作會で本縣男爵を種としたものは、二位(反當實収千五百七十二貫)及び四位で抜群の成績をあげた。」とある。
④昭和26年刊『種用馬鈴薯栽培の現況』の「まえがき」では、「本縣邑久郡沿岸地帯は山腹山上の開墾地にして田畑の面積少く、ために土地の高度利用化の一環として、古くより山間日蔭の水田に馬鈴薯の春作、丘陵地の畑にその秋作の術を覺え、無病にして品質優良な種薯の生産に成功するに至つた。而して戦時・戦後の食糧の原動力として危機突破に貢献したことは、まだ記憶に新なことである」と解説する。また、「種用馬鈴薯栽培の沿革」として、「明治三十二年頃邑久郡長長濱村の農産物仲賣商、祇園彌平と言う人が少量の馬鈴薯を神戸え搬出し南洋方面に賣路を求むるに至り、(中略)『長﨑赤』が品質優良で輸出に適することを聞き明治四十年頃神戸港より入手して持ち帰り、同郡玉津、牛窓、鹿忍、朝日の各町村に試作せしめた所成績良好であつたので漸次栽培面積が増加した」とある。
⑤大正5年6月11日『山陽新報』には、大正5年時の邑久郡の馬鈴薯の生産状況について「其の進歩と発展は想像以上と云ふべく、斯く盛に一郡の主要副産物として県下に喧伝さるるに至りし」と紹介し、資料④と同様の内容の「邑久郡馬鈴薯の沿革」が述べられている。
⑥『むらの記録 師楽』には、邑久郡の「裳掛、玉津、長浜、牛窓、鹿忍、朝日、大宮地方特産の馬鈴しょが導入される、導火線に点火されたのは、明治三十九年であった」とし、「山本倉蔵さんが、当地の住人で、先駆車であり、先導者の役割を果した人であった」と説明する。
⑦『牛窓町史 通史編』の「馬鈴薯の産地化」では、「長浜西浦の精農家祇園弥平」と牛窓町関町「高祖松太郎・鐘太郎兄弟」による産地化、2つの流れを解説する。
⑧『馬鈴薯と共に生きる六十年』は、明治36年から牛窓町で馬鈴薯を試作し、昭和40年4月に勲五等瑞宝章が授与された山本倉蔵の馬鈴薯生産60年の回顧録である。「馬鈴薯の作りはじめ」、「品種、栽培方法の変遷」、「出荷組合のはじまり」など「馬鈴薯導入当時の農作情況」が明らかにされている。
⑨『月刊をかやま』には、「馬鈴薯三代記」として「高祖松太郎」、「野口慶次」、「野口静太」ほか邑久郡の馬鈴薯栽培の歴史にふれられている。