レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2022/01/18
- 登録日時
- 2022/02/11 00:30
- 更新日時
- 2022/02/11 00:30
- 提供館
- 宮城県図書館 (2110032)
- 管理番号
- MYG-REF-210216
- 質問
-
解決
新地町の地名は,伊達政宗が相馬地方への出陣の際に新地を新領地と称したことに由来すると聞いたが,事実か。
- 回答
-
1 新地町の名前の由来について
下記の資料に関係する記述がありました。※【 】は当館請求記号
資料1 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 7 福島県』角川書店, 1981【291.03/ニ11/7】
p.1108「新地町」の項
「〔町名の由来〕古く新地方部の中心地帯を新地と呼称しており,新地とは開拓地のこととされているが,伊達政宗の領地となったとき,新領地から生まれたという一説がある。」
資料2 『日本歴史地名大系 7 福島県の地名』平凡社, 1993【291.03/ニ12/7】
p.253「新地」の項
「戦国期から近世にみえる地名。現在の谷地小屋付近に比定され,同地に新地の字名が残るが,現新地町中部・北部を示す広域地名としても使用された可能性がある。なお新地は新治(にいはり)の転訛で,すなわち新墾(にいはり)を意味し,谷地などの開発に由来する地名とする説がある。伊達輝宗日記(伊達家文書)の天正二年(一五七四)五月二九日条に「ひるかたち,新地より到来,無何事」と記される。同一五年と推定される五月一五日の伊達輝宗書状(性山公治家記録)によると,同月一一日に伊達勢は相馬方の黒木城(現相馬市),次いで杉目の陣を攻め,さらに「新地籠口江追入,五六人討捕」っているが,新地籠口とは現在の谷地小屋にあった簔頸城(新地城)とも称される)の入口をさすと考えられる。(後略)」
資料3 東京大学史料編纂所『大日本古文書 家わけ第三 [1]』 東京大学出版会, 2001【K205/015/1】
p.355 ※資料2の引用資料「伊達輝宗日記(伊達家文書)」の五月二九日の記述があります。
資料4 平重道『伊達治家記録 1』 宝文堂出版販売, 1972【K205/タ3/1】
p.240 ※資料2の引用資料「性山公治家記録」の五月十一日の記述があります。
2 資料の利用について
資料3は,東京大学史料編纂所データベースで公開されています。
URL https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/05/0301/0355?m=all&s=0335&n=20
(最終アクセス日:2021年12月26日)
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 日本 (291 9版)
- 参考資料
-
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会?編. 角川日本地名大辞典 7. 角川書店, 1981.3【291.03/ニ11/イ7】:
- . 日本歴史地名大系 7. 平凡社, 1993.6【291.03/ニ12/イ7】:
- 東京大学史料編纂所/編. 大日本古文書 家わけ第三 [1]. 東京大学出版会, 2001.5【K205/2001.5/1】:
- 平重道/編. 伊達治家記録 1. 宝文堂出版販売, 1972.2【K205/タ3/ウ1】:
- 宮城県史編纂委員会/編. 宮城県史 1. 宮城県史刊行会, 1957【K201/ミ1/イ1】:
- 宮城県史編纂委員会/編. 宮城県史 2. 宮城県史刊行会, 1966【K201/ミ1/オ2】:
- 新地町教育委員会新地町史編さん委員会/編. 新地町史 資料編. 新地町教育委員会, 1982【K275/シ1/1】:
- 新地町史編纂委員会/編. 新地町史 歴史編. 新地町教育委員会, 1999.3【K275/シ1/イ3】:
- キーワード
-
- 福島県相馬郡新地町
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 地名
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000312031