1 郷土資料で調べる
【資料1】
p.179「虫切りの渡し」で「荒川放水路ができてからは、鹿浜の渡しが架かり、渡り切った目の前が虫切りだった。鹿浜の渡しは、別名「虫切りの渡し」といわれたほど(後略)」と記述があり、鹿浜の渡しがあったことがわかる。
p.180~181「鹿浜の交通」の「用水と道」には「渡しを渡ったところがちょうど虫切りの小宮家で」とあり、「鹿浜虫切り(鹿浜1丁目小宮家)」と記述があるので、左岸の渡し場のおおよその場所がわかった。
p.284「交通の発達 渡しが住民の足」には鹿浜の渡しについて記述はなし。右岸船着き場について詳細はわからず。
【資料2】
p.206「放水路にできた渡し」に「今までの主要な街道だった所にはいくつかの渡しができた。岩淵水門のほうから見ていくと、鹿浜の渡し、新川の渡し、小菅の渡しなどがあった(中略)鹿浜の渡しは別名「虫きりの渡し」とも呼ばれた。近くに子どものカンの虫をなおす家があり、「鹿浜の虫きり」と呼ばれて、有名だったためである。今の足立区の都市農業公園のあたりで、高橋という茶屋から下りて船にのった。鹿浜の渡しは上板橋と埼玉県の草加を結ぶ重要な道だった。昭和21,2(1946、47)年頃まであった。今は、上流に環状七号線の鹿浜橋が架けられている」とあり、渡しの左岸について記述されていた。p.207には「荒川放水路にできた渡し」の図あり。
2 荒川放水路ができてからの地図にあたる
『帝都地形図別冊』(井口悦男編 之潮 2005)索引から、第一集のp.106に「鹿浜ノ渡」があることがわかり『帝都地形図』の第1集にあたる。
【資料3】
p.106「分類索引」から「鹿浜ノ渡」が地図のSEにあることがわかり、p.104~105の地図を確認する。荒川放水路に「鹿浜ノ渡」とあり。右岸船着き場は学士会ゴルフ場に隣接しており、住所は南鹿浜町。左岸船着き場は河川敷内。その土手を上った先の住所は北鹿浜町だが、鹿浜虫切りの目の前かどうかはわからなかった。この地図は「昭和15年12月測図 昭和22年7月補修」とあり。
p.103にある「対応する現代地図」では渡し場のあった場所は確認できなかった。
『明治前期・昭和前期東京都市地図』2東京北部(清水靖夫編 柏書房 1996)
p.48 川口・赤羽(昭12年測図)とp.50 川口・赤羽(昭22年測図)では渡しの確認はできなかった。
3 住所を調べる
『足立区町名のうつりかわり』(足立区役所区民部管理課編 東京都足立区役所 1982)で南鹿浜町と北鹿浜町の現在の住所を確認する。
p.102 南鹿浜町は「新田1丁目~3丁目」、p.267 北鹿浜町は「鹿浜1丁目~8丁目」となっている。
環七鹿浜橋の近くに「鹿浜虫切り」の看板があると【資料1】にあったので、現在もあるのかゼンリン住宅地図』で確認する。
鹿浜1丁目5−21に「鹿浜虫切り 小宮鍼灸院」がある。
4 鹿浜橋の完成年を調べる
【資料1】
p.22「鹿浜橋は環状7号線の橋梁として1924(大正13)年の放水路の通水から40年余りを過ぎた65(昭和40)年2月12日に下流側の片側が開通(中略)全面完成は68(昭和43)年12月」とあり。
【資料4】
「足立区50年史 年表」p.121に「1968・昭和43年5・10鹿浜橋完成(全面開通)」とあり。
【資料5】
p.107「昭和40年2月12日の鹿浜橋での開通式の様子」のキャプションのついた写真あり。昭和43年の全面開通については記述なし。
『新修足立区史』下巻(東京都足立区役所編 東京都足立区役所 1967)
p.777「区内主要橋梁一覧」は片側のみ完成として昭40の記載あり。
『東京の橋』(石川悌二著 新人物往来社 1977)には鹿浜橋なし。
環状7号線は都道なので東京都公式ホームページから第六建設事務所にあたったが鹿浜橋の完成年は見当たらなかった。(
https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/jimusho/rokken/index.html 最終アクセス日2021.10.1)