レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2020年09月16日
- 登録日時
- 2021/02/28 18:18
- 更新日時
- 2021/03/31 15:46
- 提供館
- 岐阜県図書館 (2110001)
- 管理番号
- 岐県図-2605
- 質問
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1.マーチャーシュ一世の兄弟構成
2.マーチャーシュが王になったのは何歳のことか
3.シラージ・エルジェーベトとミハイではどちらが先に生まれたか。ミハイは叔父か。
4.ブラド・ツェペシュの妻は誰か
- 回答
-
当館で所蔵している資料と、インターネットで公開されている論文資料等を用いて調査した。
ただし、文献によって記載されている情報が異なり、研究者・執筆者によって諸説存在するテーマもあるため、下記の回答はあくまでも参考情報である。
1.兄弟構成について
・ラースローとの二人兄弟であったとする説が以下の文献に記載されていた。
秋山学「マーチャーシュ王とコルヴィナ文庫」『文藝言語研究 文藝篇』(47),pp. 1-21,2005年(次のURLからPDFをダウンロードして全文を読むことができる。 https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=3539&item_no=1&page_id=13&block_id=83)(2021年3月確認)
p. 14:「マーチャーシュは、10歳ほど年長の兄フニャディ・ラースローとの二人兄弟であった」
『ハンガリー紀行』久保 義光/著(泰流社,1981年)
p. 103:系譜図があり、ラースローとマーチャーシュ(マチャシュと記載)が並列されている。
・兄弟構成に関して、調査した文献からは、マーチャーシュに妹がいたという記載は確認できなかった。しかし、これは後述の4.に記載した、「ヴラドがマーチャーシュの妹と結婚した」という説と矛盾する。よって、実際には妹が存在したが、系譜図には書かれていない可能性も想定される。
2.王になった年齢
・以下の文献には、マーチャーシュは15歳で即位したと書かれている。
『ハンガリーを知るための60章』羽場 久美子/編著(明石書店,2018年)
p. 34:「若冠15歳で即位」
『ハンガリー史 1』パムレーニ・エルヴィン/編,田代 文雄ほか/共訳(恒文社,1980年)
p. 15:「若冠十五歳の国王(マーチャーシュのことを指す)の叔父シラージ・ミハイを・・・」
3.ミハイは母方の伯父(兄)か、叔父(弟)か
・文献によって異なる情報が書かれています。前掲の「マーチャーシュ王とコルヴィナ文庫」には、p. 15に「母方の伯父スィラーギ・ミハーイが摂政になった」と記載されている。ただし、下記の文献にはミハイは叔父と記載されている。
『ハンガリー史 1』(前掲)
p. 135:「シラージ・エルジェベートと弟のシラージ・ミハーイは武装反乱を起こした」
『ハンガリー人 光と影の千年史』パウル・レンドヴァイ/著(信山社出版,2008年)
p. 80:「彼の叔父ミハーイ・シラーギ」
・ミハイの名前の発音について、上記3冊とも違うカタカナ表記がされており、決まった表記方法は存在しないようである。
4.ヴラドの妻は誰か
・下記の資料に、ヴラドがマーチャーシュの妹と結婚したという記載がある。
『ドラキュラ伯爵 ルーマニアにおける正しい史伝』ニコラエ・ストイチェスク/著,鈴木 四郎ほか訳(中央公論社,1988年)
p.18:「ヴラッド・ツェペシュとマティアス・コルヴィヌス王の実妹とが、ドナウ河畔の広い庭園を持つ監禁所を舞台にいつ知り合い、いつ恋に陥ったかは、一切の証拠が残っていない。しかし両人は王の許しを得て正式に結婚し・・・」
・この本には妻の名前は記載されていない。
『《ドラキュラ公》ヴラド・ツェペシュ』清水 正晴/著(現代書館,1997年)
p. 234:「さらに事態をわかりにくくしているのは、ヴラドがマーチャーシュの妹マリアと結婚していることである。」
・「マリア」という名前は、調査した本のうちこの文献にしか確認されておらず、出典情報も明確にされていない。
また、英語版wikipediaのヴラドの記事の"Family"の説を参照すると、ヴラドがマーチャーシュの親族と結婚したという説が記載されている。(https://en.wikipedia.org/wiki/Vlad_the_Impaler#CITEREFHasan2013)(2021年3月確認)
このwikipediaの記事によると、Alexandru Simonという歴史家が、「ヴラドはフニャディ・ヤーノシュ(マーチャーシュの父)の非嫡出の娘と結婚した可能性がある」という説を提示したようであるが、その説がどの論文に書かれているかは、wikipedia記事中には明記されていない。
ただし、この歴史家の書いた、「プロパガンダと婚姻:フニャディ家とハプスブルク家の間のドラキュラ」というタイトルの英語論文の抄録がインターネット上に公開されており、ヴラドがマーチャーシュの近親血縁者と結婚した旨が記載されているため、参考までにURLを添付する。なお、この論文の本文が掲載されているTransylvanian Reviewという雑誌は、国内で所蔵している図書館はなく、インターネット上でも本文を閲覧することができない。
(https://web.a.ebscohost.com/abstract?direct=true&profile=ehost&scope=site&authtype=crawler&jrnl=12211249&AN=71724492&h=SRpAtHjuTla7tm7pIMyJC5Cl4g9CjrilsovO50YMCjPREj1gETUCqKjqCr0ehYvzc8oJtENkcG4wodKJ215iXA%3d%3d&crl=f&resultNs=AdminWebAuth&resultLocal=ErrCrlNotAuth&crlhashurl=login.aspx%3fdirect%3dtrue%26profile%3dehost%26scope%3dsite%26authtype%3dcrawler%26jrnl%3d12211249%26AN%3d71724492) (2021年3月確認)
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- ドイツ.中欧 (234 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- ハンガリー王
- マーチャーシュ
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000294349