以下の資料に関連記述を確認しました。
1.信仰の概要や由来について
・『日本石仏事典』(庚申懇話会/編 雄山閣出版 1995)
p.158-160「日待塔総説」
「十月十五日が日待のアタリ日で(略)『実隆公記』によれば、庶民の間で行われていた日待と呼ぶ徹夜の習俗が文明年間(一四六九-一四八七)ごろから(略)宮中の行事
となっていった様子がうかがわれる。(略)室町時代建立の月待や庚申待板碑が多数あるのに、日待の青石板碑が一基も見当たらないのは日待が神事として行われていたためと考えられる。(攻略)」とあります。
p.164 「月待塔総説」
「月待塔は、特定の月齢の夜に集まり、月待の行事を行った講中で、供養のしるしに造立した塔である。月待塔で最も普遍的なのが二十三夜塔である。」とあります。
以降、p.165-188に、それぞれの由来や、文字塔・像塔の分布などについて各県・各地の具体例を取り上げ、解説されています。
p.165「十三夜塔」の項に、「十三夜の月見は九月十三夜が有名であるが、十三夜待は十三日の夜、虚空蔵菩薩を本尊として礼拝・勤行した行事で(略)三十日仏説では虚空蔵菩薩の有縁日は十三日なので(後略)」とあります。
p.165「十五夜塔」の項に、「十五夜塔には文字塔と刻像塔とがある。刻像では大日如来と聖観音などを刻むものがある。」とあります。
p.166-168「十六夜塔」の項があり、「『下野の野仏』によれば、栃木県下には十六夜塔が九基ある。(略)栃木県で最も古いものは元禄十四年(一七〇一)のものが芳賀郡市貝町赤羽にあり、ついで正徳四年(一七一四)と五年(一七一五)造立の塔が真岡市にある。」との記述があります。
p.169「十七夜塔」「長野県西筑摩郡田立村の十七夜待について『民間伝承』(八-七)には、九月十七日に餅をついてお月様に供える習俗が報告されている」との記述があります。
p.169-171「十八夜塔」「十八夜の民俗で特徴的なことは、正、五、九、十一月の十八日に行われ、餅をついて月に供えることである。」とあります。
p.171-174「十九夜塔」「十九夜の月待講といわれるが婦人たちの念仏講でもある。十九日の夜当番の家あるいは寺院や堂に集まって、多くは如意輪観音の軸を掛け、その前で勤行が行われる。」とあります。
・『群馬県史 資料編 民俗 2 26(群馬県史編さん委員会/編 群馬県 1982)
p.256「第五章 民俗信仰 十九夜待・二十二夜待」の項があり、
本文中に、「十九夜講はもと子安信仰に発している。日本古来の子安神は、仏教の影響を強くうけて子安地蔵とか子安観音となった。それらの祭日が月々の十九日であったので十九夜講とよばれるようになったらしい。」とあります。
2.栃木県内の信仰について
・『栃木県民俗事典』(尾島利雄/著,下野民俗研究会/編 下野新聞社 1990)
p.169-170「ジュウクヤシンコウ(十九夜信仰)」
信仰の解説があり、本文中に「本県の代表的なものである。」、「「県南と県北では、その信仰内容が「十九夜をなぜ重要視するかははっきりとしない。女性の厄年である十九歳から、とも言われるが、十五夜と二十三夜との中間とも考えられる。」とあります。その他、「十五夜」、「十三夜」の項もあります。
・『下野の野仏 緊急碑塔類調査報告』(栃木県教育委員会/編、発行 1973)
p.8-16「3.月待・日待信仰に関するもの」の項があり、県内の地域ごとの信仰について記述があります。
このほか、以下資料にも関連の項を確認しました。
・『全国石仏石神大事典』(中山慧照/著 リッチマインド出版事業部 1990)
p.878-879「日待塔」
・『日本史大事典 第4巻』(平凡社 1993)
p.1075-1076「月待」
・『民間信仰辞典』(桜井徳太郎/編 東京堂出版 1980)
p.150-150「十九夜講」、「十八夜講」
・『日本を知る事典』(大島建彦/編 社会思想社 1971)
p.513「Ⅷ 季節と年中行事 C 暦と年中行事 二、年中行事」内に「十五夜」、「十三夜」
・『日待・月待・庚申待』(飯田道夫/著 人文書院 1991)
p.131-136「十三夜待」
p.137-141「十九夜待」
p.142-146「二十三夜待」
p.147-152「二十六日待」
p.153-156「十六夜月、その他」の項があります。