レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2019/01/01
- 登録日時
- 2019/03/31 00:30
- 更新日時
- 2019/04/09 16:04
- 管理番号
- HC-19010806
- 質問
-
解決
板垣退助の旧姓は乾(いぬい)といったが、板垣を名乗ることになったのはいつのことで、どのような経緯があったのかを知りたい。
- 回答
-
『板垣退助』(1990年 PHP研究所)のp201~p206板垣退助略年表に「明治元年(1868)3月6日甲州勝沼に戦勝、この頃乾姓を改め板垣氏を称す。」と記載があります。
上記年表によると板垣退助は高知城下(土佐藩)で生まれたとあり、『三百藩家臣人名事典 第六巻 岡山県 広島県 山口県 徳島県 香川県 愛媛県 高知県 』(1989 新人物往来社)で、乾姓をみると、「乾和三(いぬい かずみつ)」があります。記述の最後の方に、子孫に乾退助がおり、戊辰戦争の時に板垣姓に復したと記されています。
また上記『板垣退助』p9に、「乾家の祖先は、甲斐の武田信玄に仕えて勇猛を謳われた板垣駿河守信形である。信形は天文十六年(一五四七)、上田の戦いで戦死し、遺児の正信が家来に守られて遠江掛川の乾備後を頼った。成長した正信は乾家を継いで山内一豊に仕え、山内家とともに土佐に移ってきた。正信には子が生まれなかったので、山内一豊の次男正行を養子にもらった。これが土佐の乾家である。」という記載がある。
また、『角川日本姓氏歴史人物大辞典19山梨県』p167~p168「板垣」の項にも「板垣退助家の祖は武田家臣板垣信方と伝えられ、その後翁が土佐山内氏に仕えて乾氏を称し、知行三〇〇石・馬廻りに列したという。明治元年 三月五日東山道総督府参謀として甲府に入城したとき、退助自ら信方の裔と称している。」と記載されている。
板垣信方については、『板垣退助』では「信形」表記になっていますが、『戦国時代人物事典』(2009年 学研パブリッシン)、『戦国人名辞典』(2006年 吉川弘文館)では「信方」表記となっています。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 系譜.家史.皇室 (288)
- 参考資料
-
- B11282640 板垣退助 高野澄/著 PHP研究所 1990.1 289.1 4-569-52668-3
- B11274383 三百藩家臣人名事典 6 家臣人名事典編纂委員会/編 新人物往来社 1989.10 281.033 4-404-01651-4
- B11270575 角川日本姓氏歴史人物大辞典 19 角川書店 1989.6 288.1 4-04-002190-8
- キーワード
-
- 板垣退助
- 乾
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献調査
- 内容種別
- 一般
- 質問者区分
- 一般
- 登録番号
- 1000254215