レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2017/03/31
- 登録日時
- 2019/02/25 00:30
- 更新日時
- 2019/02/25 00:30
- 提供館
- 宮城県図書館 (2110032)
- 管理番号
- MYG-REF-180083
- 質問
-
解決
昔はコノシロを食べなかったという理由が分かる資料はあるか。
- 回答
-
コノシロについて記載のあった以下の資料を御案内します。※【 】内は当館請求記号です。
資料1 望月賢二 監修, 魚類文化研究会 編『図説魚と貝の事典』柏書房, 2005【487.5/055/R】
p.183 「コノシロ[?]」の項
「(前略)【和名由来】①焼くにおいが人を焼くにおいと似るので、焼いて「子の代」としたことから。(中略)【歴史・文化】『塵塚談』にコノシロについて、「武家は決して食せざりしものなり」とあるが、コノシロを食べることは「この城を食べる」ことになるとして嫌われ、武士はコハダと呼んだとある。(中略)腹部が破れやすいので、「切腹魚」といって武士の切腹のときに用いたことから忌み嫌われたといわれる。(後略)」
資料2 『日本大百科全書 9』小学館, 1994【031/94Y/9タR】
p.468 「コノシロ」の項
「(前略)成長につれて呼び名が変わり、(中略)一〇センチ前後のものをコハダ(西日本の一部ではツナシ)とよぶ。(中略)うま味はあるが、においにかなり強いくせがある。(中略)この魚は焼くと死臭がするといって嫌われ、武士はこれを焼くのを「この城を焼く」といって避けた。また武士が切腹するとき、この魚を出したという。(後略)」
資料3 楠本憲吉『ことばのセンス』PHP研究所, 1978【810.4/78Y】
pp.143-145 「?」の項
「(前略)昔の武士は、コノシロを、縁起の悪い魚としていた。コノシロを食うといえば「この城を食う」を連想するからである。武士が切腹の日の膳部にあらかじめコイの焼肴を供するが、下級武士にはコノシロを供した。(中略)ツナシを焼くとその臭気は人を焼くにおいと同じといわれている。昔、有馬皇子が下野国に落ちのびて来て、その国の長者の娘と恋仲になった。ところが常陸国司が、その娘を妻にと希望したので、父の長者は一計を案じ、娘は死亡したと答えて、葬式を出した。「棺」の中にツナシを入れて焼いた―という話が残されている。東路の室のやしまに立つ煙 たが子の代につなし焼くらん(慈元抄)(後略)」
資料4 能勢幸雄[ほか] 編『魚の事典』東京堂出版, 1989【487.5/サ2/R】
p.158 「コノシロ ?」の項
「(前略)「子の代」,「この城」などと呼ばれ,種々の儀式,子どもの健康祈願,武士の切腹の際の供え物などに用いられた。また,小骨が多く,焼くと臭いが良くないため関東の武家社会ではあまり喜ばれなかった。(後略)」
資料5 篠崎晃雄『おもしろいサカナの雑学事典』新人物往来社, 1994【487.5/943/R】
pp.163-164 「コノシロ ?」の項
「(前略)?は死ぬと腹が切れるので「切腹魚」といい、また「この城を食う」に通ずるとて武家は忌み嫌った(後略)」
資料6 岩本活東子 編『燕石十種 第1巻』中央公論社, 1979【914.5/エン795/1】
p.287 「塵塚談/河豚(フグ)、?魚(コノシロ)」の項
「我等若年の頃は、武家は決て食せざりし者也、?魚は、此城を食ふといふひゞきを忌みて也、(後略)」
資料7 荒俣宏『世界大博物図鑑・2・魚類』平凡社,1989【480.3/ア1/2R】
pp.74-75 「コノシロ」の博物誌の項
「(前略)まず第1系列の<子の代>は,つまるところ子どもの身代わりという意味である.(中略)また《塵塚談》(文化11/1814)によると,かつて武家は<この城を食う>という響きを忌みて,コノシロを食べなかった.(中略)俗に富士の麓の入江にそそぐ大河(富士川か)にはコノシロが多く,それは山神にこの魚が愛されいるからだといわれた.それで富士に参詣する人はコノシロを食べないという.(後略)」
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 脊椎動物 (487 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 故事
- 伝承
- 嫌忌
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- その他
- 質問者区分
- 図書館
- 登録番号
- 1000252109