レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2018年08月04日
- 登録日時
- 2018/08/26 11:03
- 更新日時
- 2019/09/12 17:52
- 管理番号
- 島根郷2018-08-001
- 質問
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解決
幕末の戊辰戦争のとき、上野・寛永寺の彰義隊に浜田藩の藩士が参加していたと聞いた。参加した背景など詳しいことが知りたい。
- 回答
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当館所蔵資料より、下記の資料を紹介し回答。
資料1:20号p51-58「窮鼠となった浜田藩士 上野に馳せ参ず」(神山典之)。
慶応2年6月に長州軍の侵攻を受けた浜田藩は7月に浜田城を自焼退城し、松江を経由・逗留して、慶応3年3月に飛領地の美作・鶴田(たづた)に移った。元高6万1千石から8千石になり、家中3千数百人は困窮する。一方で江戸定府6百人余りの藩士も、新政府から江戸詰の各藩藩士とその家族に帰国命令が出たが、浜田藩は新政府へ、藩士帰国の旅費を捻出できないという返事を出すほど困窮していた。長州軍および大村益次郎のやり方は武断的作戦で領地を蹂躙された浜田藩は窮鼠となってしまい、このような背景から「上野戦争は家門としての立場と共に生活権をかけての戦いでもあった」としている。
慶応4年4月、浜田藩の江戸詰の藩士が藩邸を脱し、竹中丹後守の純忠隊に参加する。彰義隊が牛耳を執り、部署は下寺通りと決まり、藩主・右近将監にちなみ鬱金色のタスキをかけていたとしている。5月15日に西軍と決戦、隊は守備する屏風坂門を出て広小路・御徒町まで進出して戦ったが、次第に根岸三河島方面へ逃れていった。のちの発表によると、浜田藩士の加盟者は95名、戦死者9名とされている。最終的に80名が捕えられ、6名が逃げとおした。その80名は謹慎を命じられ、鶴田藩へ移送された。彰義隊加盟者は明治2年2月に謹慎を解かれ、そのまま藩に復籍したという。
最後に彰義隊に参加した浜田藩士・藤村市之丞(のち積)の手記の一部を載せる。上野戦争時の浜田藩士たちの動向を知ることができる。藤村は上野戦争時に22歳、のちに藩校道学館教授、国の会計検査員などを務めた人物。
- 回答プロセス
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浜田市の自治体誌や地域史を確認したが、見つからなかった。
- 事前調査事項
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『岸静江とその時代 激動の幕末浜田藩』(資料2)のp19「また5月15日には江戸で脱藩者95人が上野彰義隊に参加するなどの動きもあった」という一文があった。
- NDC
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- 中国地方 (217 8版)
- 日本史 (210)
- 参考資料
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【資料1】石見郷土研究懇話会 編 , 石見郷土研究懇話会. 郷土石見 第15~20号. 石見郷土研究懇話会, 1985.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I069496288-00 (当館請求記号 092.0/440/15-20 ※貸出禁止資料) -
【資料2】浜田市教育委員会 編 , 浜田市教育委員会. 激動の幕末と浜田藩 : 岸静江とその時代. 浜田市教育委員会, 1997.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I069373195-00 (当館請求記号 郷貸出217.36/ハ97)
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【資料1】石見郷土研究懇話会 編 , 石見郷土研究懇話会. 郷土石見 第15~20号. 石見郷土研究懇話会, 1985.
- キーワード
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- 浜田藩
- 上野戦争
- 彰義隊
- 島根県
- 松平右近将監家
- 美作鶴田藩
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000241250