レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2017/7/6
- 登録日時
- 2017/11/27 00:30
- 更新日時
- 2024/03/29 00:32
- 提供館
- 金沢市図書館 (2310230)
- 管理番号
- 玉川-000536
- 質問
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解決
【主計町の茶屋街について】 主計町の茶屋街がいつできたか知りたい。
- 回答
-
○明治2年説をとるもの
『かなざわ名妓の栞』(118578916)(出版年不明)
「主計町検番」
「花柳界になるのは明治二年(一八六九)、東廓の幕末に次いで二番目に古い」と記載されている。
『20世紀の照像 石川写真百年・追想の図譜』(改編版)(118388152)
p.99「主計町」 「1869(明治2年)」から遊廓となった。」と記載されている。
『金沢の芸妓さん』(アクタス2007年1月号別冊)(118487446)
p.78「主計町茶屋街」によると、「「主計町茶屋街」は、大正ロマン漂う浅野川大橋から下流の左岸にあり、歴史は明治二年(一八六九)にさかのぼる。」と記載されている。
『金沢 歴史と文学と伝統文化に彩られた加賀百万石の城下町』(118457222)(2004年)
p.24「主計町」
「浅野川に架かる浅野川大橋から中の橋までの川沿いの一画が主計町。町名は、江戸時代に加賀藩士・富田主計の屋敷があったことに由来する。明治2年(1869)年、遊廓が置かれたことが、花街の起こり。」と記載されている。
『金沢・町物語』(118555205)(復刻新版)(2013年)
p.120「江戸に招かれた城下町の元締め」によると、「花柳界になるのは、それからずっと後の話で明治二年(一八六九)。それでも東廓の幕末に次いで二番目に古い。」と記載されている。
○明治2年説をとらないもの
『稿本金沢市史 風俗編第2』(1973年)
p.500に出合宿の営まれた地域として「主計町○俗に母衣町と呼ぶ」と記載されており、現在の主計町とは違う地域を指している。
『論集 近世女性史』(11078077)(1986年)
「金沢の廓」p.305によると、浅野川沿いで出合宿の営まれた地域は母衣町・観音坂下・漏尿坂(よっぱり坂)で、現在の主計町に該当する地域は含まれていない。
『金沢市文化財紀要 190 金沢市主計町伝統的建造物群保存対策調査報告書』(119769986)(2002年)
p.6「藩政期を通じて主計町に公認の遊廓はなく、茶屋街としての成立は明治2年(1869)とする文献があるが、根拠は示されていない」と記載されている。
『金沢市史 資料編 14民俗』(119748725)(2001年)
p.569-570「主計町廓」によると、明和3(1766)年藩が出合宿の取締りを強化した際に主計町がその対象になったこと、茶屋町としての主計町の初見は『金沢の百年 明治編』(市史年表)(119871415)の明治35年2月の頃であることが記載されている。
<追記>
○主計町の茶屋街としての特徴について
『近代庶民生活誌 14』(111435045)p.100に「金沢の主計町は遊廓では無い」、p.101に「(主計町は)貸座敷の免許地では無いが、さればとて検番制度でも無い(中略)但し女は芸妓の鑑札を所持して居る。(中略)妓楼は料理屋と云ふ看板か、又は待合茶屋と看板が出て居る」と記載されている。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000225451