レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2015年04月18日
- 登録日時
- 2016/01/28 13:09
- 更新日時
- 2016/05/11 16:14
- 管理番号
- 埼熊-2015-178
- 質問
-
未解決
奈良から安土桃山時代における深谷市菅沼(旧川本町)の歴史について知りたい。
- 回答
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下記資料に記述あり、これを提供した。ただし、奈良から安土桃山時代の詳細はなかった。
『武蔵国郡村誌 第10巻』(埼玉県立図書館 1954)
p13 「菅沼(すがぬま)村」の項あり。「管轄沿革 古昔成田下総守の所領たり天正十八庚寅年徳川氏関東総領の後旗下士城和泉守の采地となる後徳川氏の直轄となり代官之れを支配す弘化元甲辰年大久保豊後守の采地となる明治元戊辰年武蔵知県事の管轄となる」とあり。
『埼玉県の地名 日本歴史地名大系 第11巻』(平凡社 1993)
p779「天正7(1579)年8月18日の聖護院門跡御教書(篠場文書)によると、長命寺(現江南町)に「菅沼」の旦那職などが安堵されている。田園簿には管沼村と誤記され、田方一三石余・畑方一三二石余、旗本大久保領。」とあり。
『埼玉大百科事典 3』(埼玉新聞社 1974)
p141「すがぬまむら」の項あり。「古くは萱苅庄、藤田郷、忍領に属す。中世は成田氏支配、江戸時代は天領ののち、旗本領(城氏)、天領を経て幕末は旗本領(大久保氏)。」
『埼玉県地名誌 名義の研究』(韮塚一三郎著 北辰図書 1969)
p382「川本村 (旧)武川村 明治22年榛沢郡下の田中、上原、長在家、瀬山、明戸、菅沼の六村を合併して新たに武川村を設置した。」「武川荘の名ははたして存したか否か明らかでない。」とあり。筆者は「武川衆の名との混同があったのではないかとおもう。武川衆とは、武田氏の族で甲斐国巨摩郡竹川筋の村里に分封して子孫が繁栄し、これを武川衆と号している。」と記述している。
p387「藤田(ふじた) 藤田は古くは藤田郷萱刈荘に属し、文政以降設置の村で武蔵七党猪俣党の藤田氏の在所である。」とあり。
『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』(角川書店 1980)
p497「菅沼<川本町>」の項あり。
「〔中世〕菅沼 戦国期に見える地名。榛沢郡のうち。」
p283「かやかりのしょう 萱刈荘」の項目あり。「中世末期頃から用いられたと思われる。」
p754「ふじたごう 藤田郷」の項あり。「中世末期頃から用いられたと思われる。」
『武蔵田園簿』(近藤出版社 1977)
地名索引p34「榛沢郡 菅沼(すがぬま)」
p193「一 高百四拾五石三斗六升三合 大久保丹波守知行 管(菅)沼村
内 拾三石五升三合 田方 百三拾弐石三斗壱升 畑方」とあり。
大久保丹波守の知行としては、ほかに「榛沢郡明戸村 五拾八石三斗弐升弐合」があり。
解説に「武蔵田園簿」成立時期は慶安二(1659)年から三(1650)年とあり。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 貴重書.郷土資料.その他の特別コレクション (090 9版)
- 日本 (291 9版)
- 参考資料
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- 『武蔵国郡村誌 第10巻』(埼玉県立図書館 1954)
- 『埼玉県の地名 日本歴史地名大系 第11巻』(平凡社 1993) , ISBN 4-582-49011-5
- 『埼玉県地名誌 名義の研究』(韮塚一三郎著 北辰図書 1969)
- 『埼玉大百科事典 3』(埼玉新聞社 1974)
- 『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』(角川書店 1980) , ISBN 4-04-001110-4
- 『武蔵田園簿』(近藤出版社 1977)
- キーワード
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- 深谷市-歴史
- 榛沢郡
- 川本町
- 萱刈荘
- 藤田郷
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土 地名
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000187636