レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年11月05日
- 登録日時
- 2013/11/05 08:57
- 更新日時
- 2013/12/06 22:02
- 管理番号
- 20131105-1
- 質問
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解決
范蠡について知りたい。
- 回答
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范蠡(はんれい) [日本大百科全書(小学館)]
生没年不詳。中国、春秋時代末期の越(えつ)の大夫(たいふ)。楚(そ)の三戸(さんこ)の人と伝えられる。大夫種(しよう)(文種(ぶんしょう))とともに越に入り、勾践(こうせん)に仕えて重用された。紀元前494年、呉(ご)王の夫差に越が敗れてのち、苦心して時を待ち、前473年呉を滅ぼした。しかし范蠡は、覇者となった勾践のもとを辞して斉(せい)に去り、鴟夷子皮(しいしひ)と名のり、産業に努め巨富を築いた。斉の人は彼を宰相に推したが、「久しく尊名を受くるは不祥なり」と考え、資産を友人たちに分与し、交通の要衝、陶(とう)(山東省定陶県)に移住した。そこでふたたび巨富を築き、陶朱公と称した。彼は師である計然(けいぜん)の七策のうち五策で越王勾践を覇者とし、残りの二策で富を築き、在世中、三度住まいを移し、そのたびに名を表したと伝えられ、『范蠡計然』『陶朱公致富奇書』などの書名に名をとどめることになった。
范蠡 【はんれい】 コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E8%8C%83%E8%A0%A1 (2013/11/05確認)
世界大百科事典 第2版
はんれい【范蠡 Fàn Lǐ】
中国,春秋時代の越王句践(こうせん)の忠臣。生没年不詳。句践を助けて呉を討ち会稽の恥をそそいだが,越が天下に覇をとなえると句践のもとを去り,海路斉に行った。彼はここで鴟夷子皮(しいしひ)と号し数千万の財をたくわえて斉の宰相となったが,散財して今度は交易の要地である陶(とう)(山東省定陶県)に行って朱公と称し,再び巨万の富を得た。しかし今度もまた,すべて貧者に分け与えてしまったという。いわば中国商人の元祖であるが,これら《史記》に見える彼の事跡には多分に後世の作為があり,伝説の域を脱しない。
デジタル大辞泉
はん‐れい 【范蠡】
中国、春秋時代末の越の忠臣。楚国苑(えん)(河南省)の人。越王勾践(こうせん)に仕えて富国強兵を図り、呉を滅ぼして会稽の恥をそそいだ。のち野に下り、陶朱公と称して巨万の富を築いたという。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 中国 (222 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 范蠡 はんれい
- 越
- 勾践 こうせん
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000140021