レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年10月20日
- 登録日時
- 2013/10/20 23:55
- 更新日時
- 2013/10/21 00:22
- 管理番号
- 20131020-4
- 質問
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解決
佐藤一斎について知りたい。
- 回答
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佐藤一斎(さとういっさい) Yahoo!百科事典[日本大百科全書(小学館)]
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E4%BD%90%E8%97%A4%E4%B8%80%E6%96%8E/ (2013/10/20確認)
(1772―1859)
幕末期儒学思想界の大御所。名は信行、のちに坦。通称は幾久蔵(きくぞう)、のちに捨蔵。字(あざな)は大道。号は一斎、愛日楼(あいじつろう)、老吾軒、百之寮、風自寮。・・・
幕末期の文教政策・人材養成の点で果たした一斎の功績はきわめて大きいものがあった。主著に『言志(げんし)四録』『愛日楼文詩』などがある。
参考文献
相良亨・溝口雄三他校注『日本思想大系46 佐藤一斎・大塩中斎』(1980・岩波書店)
松浦玲・宮城公子訳『日本の名著27 大塩中斎・佐藤一斎』(1978・中央公論社)
佐藤一斎 【さとう・いっさい】 コトバンク
朝日日本歴史人物事典
生年: 安永1.10.20 (1772.11.14)
没年: 安政6.9.24 (1859.10.19)
江戸中・後期の儒学者。林家塾塾頭。のち昌平坂学問所教官。名は坦,字大道,通称捨蔵,号(惟)一斎,愛日楼。・・・
<参考文献>高瀬代次郎『佐藤一斎と其門人』,五弓久文編『事実文編』58巻
世界大百科事典 第2版
さとういっさい【佐藤一斎】 1772‐1859(安永1‐安政6)
江戸後期の儒者。名は坦,字は大道,通称は捨蔵。号は一斎のほか,愛日楼,老吾軒など。美濃岩村藩の家老職の家に生まれ,藩主の三男でのちの林述斎とともに儒学を学ぶ。また大坂の中井竹山にも学び,林家の門に入る。述斎が林家を継ぐとこれに師弟の礼をとり,1805年(文化2)には林家の塾長となって門生の教育に当たった。述斎没後の41年(天保12),幕府の儒官となり昌平黌で教えた。その学問は立場上表面は朱子学をとったが,陽明学の影響も強く受け,〈陽朱陰王〉と評された。
デジタル大辞泉
さとう‐いっさい 【佐藤一斎】
[1772~1859]江戸後期の儒学者。江戸の人。名は坦。中井竹山・林述斎に学び、林家の塾長、昌平坂学問所教授を歴任。門人から渡辺崋山・佐久間象山・中村正直らを出した。著「言志録」など。
さとういっさい【佐藤一斎】 国史大辞典
一七七二 - 一八五九
江戸時代後期の儒者。初めの名は信行(のぶゆき)、通称幾久蔵。二十一歳の時、名を坦(たいら)、通称を捨蔵に改めた。字は大道(たいどう)、一斎は号である。・・・
[参考文献]
相良亨・溝口雄三・福永光司校注『佐藤一斎大塩中斎』(『日本思想大系』四六)、田中佩刀解説『縮印版愛日楼文詩(全)』、『(日本名家)四書註釈全書』論語部一・孟子部一・学庸部二、『日本儒林叢書』三、高瀬代次郎『佐藤一斎と其門人』、前田愛「佐藤一斎の位置」(『幕末・維新期の文学』所収)、田中佩刀「補正・佐藤一斎先生年譜」(『明治大学教養論集』九九)
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本思想 (121 9版)
- 日本史 (210 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 佐藤一斎 さとういっさい
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000139263