戦前期の日本とユダヤ人のかかわりに関する史料は、主として外務省記録「民族問題関係雑件 猶太人問題」(猶太=ユダヤ)に綴じられています。また、同記録ファイルには、日本に逃れてきたユダヤ系避難民に関する史料も多数残っています。神戸における彼らの生活状況を詳細に報告した史料として、当時の日本郵船の神戸支店長が1941年(昭和16年)4月9日付けで、本社に送った報告書があります。
同報告書によると、当時の神戸には約1,700人にものぼるユダヤ系避難民が滞在し、そのうちおよそ1,000人は生活費にも困窮していて、在米ユダヤ人協会からの援助で1人1日1円20銭を支給されていましたが、食事や住居など厳しい暮らしを強いられていたそうです。その暮らしぶりを報告書では、「至極惨メナ生活ヲ営ミ居レリ」と、同情的に伝えています。
この報告書が現在外交史料館に残っているのは、日本郵船東京本社の船客課米国係が外務省亜米利加局第三課(旅券、査証関係を担当)の土居萬亀(どい・まんき)嘱託に送った書簡に、神戸支店長からの報告の写しを添付していたことによります。日本郵船側がこの問題を重視していた姿勢が読み取れます。
この後、ユダヤ人の多くは、外務省の判断と日本郵船の尽力により上海に渡り、第二次世界大戦後まで生き延びました。