レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2011年08月10日
- 登録日時
- 2011/08/10 23:23
- 更新日時
- 2013/03/21 12:32
- 管理番号
- 20110810-4
- 質問
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解決
幕末に設置された赤羽接遇所の場所を確認したい。
- 回答
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国際日本文化研究センターの所蔵地図データベースで下記の絵図が公開されていた。
芝口南西久保愛宕下之圖
(内題)増補改正芝口南西久保愛宕下之圖、(題簽)芝愛宕下繪圖 全、 (袋題)嘉永新刻芝愛宕下繪圖 全
万延2 1861
尾張屋清七(江戸、板元)
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/2149508.html (2011/08/10確認)
goo地図で下記の絵図が公開されていた。
芝口南西久保愛宕下之 江戸切絵図 尾張屋板 萬延2年(1861年)
http://map.goo.ne.jp/history/map.php?st=100&kr=8 (2011/08/10確認)
左下、赤羽橋の近くに「外国人旅宿」が見える。
- 回答プロセス
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『国史大辞典』を調べた。
赤羽応接所 あかばねおうせつしょ
「幕末、主に外国使臣の宿所または彼らとの交渉場として、幕府により新設された建物で、接遇所などとも呼ばれた。江戸芝赤羽(東京都港区東麻布)にあり、講武所附属調練場の空地約二千八百六十坪(約九四三八平方メートル、同所師範下曾根金三郎元預り地)が、安政六年(一八五九)三月外国人旅宿所敷地に指定され、作事奉行関出雲守らの手により、同年八月普請完了、外国奉行は外回り警衛方を町奉行に通達した。
(中略)
万延元年(一八六〇)正月・二月に幕府と直接折衝するため出府した箱館在勤ロシア領事ゴスケビッチの宿所となっているが、同年七月、日普通商条約締結のため来日したプロシア使節オイレンブルク一行の公館となり、同所で交渉が行われ条約が調印された。この時、支援にあたったヒュースケンは、赤羽から米公館へ帰る途次、浪士により殺されている。シーボルト父子が、文久元年(一八六一)五月から十月まで、宿泊したこともある。」
この情報をもとに古地図を調査した。
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210 9版)
- 日本 (291 9版)
- 参考資料
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- 國史大辭典 / 国史大辞典編集委員会編 第1巻 吉川弘文館 , 1979 ISBN:4642005013
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シーボルト日記 : 再来日時の幕末見聞記 / [シーボルト著] ; 石山禎一, 牧幸一訳 八坂書房 , 2005 ISBN:4896948556
p.239 -
所蔵地図データベース(国際日本文化研究センター)
http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/syozou-map.html (2011/08/10確認) -
江戸(切絵図) goo地図
http://map.goo.ne.jp/history/area_top.html (2011/08/11確認) - 復元江戸情報地図 / 吉原健一郎, 俵元昭, 中川恵司編集・制作 朝日新聞社 , 1994 ISBN:402256797X
- ジーボルト最後の日本旅行 / A.ジーボルト著 ; 斎藤信訳平凡社 , 1981 (東洋文庫 ; 398) ISBN:4582803989 p.115
- キーワード
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- 赤羽接遇所
- 外国人旅宿
- 東京都港区東麻布
- 赤羽応接所
- 芝赤羽
- 赤羽根
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000089817